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ハルク・ホーガンは「でくの坊」からスーパースターへ 元東スポ記者が語る「イチバン」誕生秘話とアントニオ猪木の教え (3ページ目)

  • 大楽聡詞●取材・文 text by Dairaku Satoshi

【WWFでスーパースターに】

――印象的な試合が多く、ホーガンの「一番Tシャツ」も売れていましたね。

柴田:タンクトップやハッピもありましたね。ホーガンの影響で、"ICHIBAN" はアメリカでも有名な日本語のひとつになりました。

――ホーガンは1981年から、アメリカでの主戦場をAWAに移しました。当時のAWA王者はニック・ボックウィンクルで、ホーガンは何度も対戦しましたがタイトル奪取はなりませんでした。

柴田:ニックは少しクセはありましたが、ジェントルマンで、クレバーで最高のAWA世界王者でした。ルックスもよくて、スーツを着たら映画俳優さながら。ホーガンがAWAに行ったのは正解ですよ。AWA世界王座は奪取できなかったけど、ニックなどと戦うことで知名度が上がりましたから。

――この頃のホーガンは、アメリカでもあまり評価されていなかったようですね。

柴田:アメリカこそ、力自慢のレスラーがたくさんいますから。当時のNWA王者リック・フレアーにしてもWWF(現WWE)王者のボブ・バックランドにしても、パワーやテクニックだけではなく、観客の心を読み、動かしていた。テクニックやストラテジー(戦略)を重要視していて、「こう動いたら、相手はどう動くのか。それによって観客はどう感じるのか」と考えながら戦っていた印象です。猪木さんもそうでしたから、近くで学べたのは大きかったですね。

――1982年に映画『ロッキー3』が公開され、アメリカでホーガンの知名度が上昇。翌年12月、来日中にWWFと専属契約を交わしています。

柴田: AWAの名レスラーで、引退後は団体を経営していたバーン・ガニアは、WWFにホーガンを引き抜かれて大激怒していました。それを尻目に1984年1月、ホーガンはアイアン・シークを破ってWWF世界ヘビー級王座を初戴冠。そこからスーパースター街道を駆け上がりました。

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