ハルク・ホーガンは「でくの坊」からスーパースターへ 元東スポ記者が語る「イチバン」誕生秘話とアントニオ猪木の教え (2ページ目)
【猪木の教えで「でくの坊」から成長】
――1980年11月に開幕した、新日本プロレスの「第1回MSGタッグ・リーグ戦」では、スタン・ハンセンとのタッグで準優勝しました。
柴田:ホーガンは身長が201cm。アメリカナイズされ、大きな会場でも映えるし、筋骨隆々な姿を観客にアピールするパワーファイターでした。ただ、動きが大きいから来日当初は"大味"な感じで、「でくの坊」とも言われていましたね。そこにレスラーとして魂を吹き込んだのはアントニオ猪木さんでしょう。
――1982年と1983年のMSGタッグ・リーグ戦は、猪木さんとのタッグで2連覇。この頃、ファイトスタイルが大きく変化しましたね。
柴田:来日当時は、外国人レスラーも含めて、誰もホーガンと対戦したくなかったんです。パワーだけで、技もないし受け身も取れなかったですから。あの巨体で相手の腕や脚を極めたり、細かいグラウンドの攻防に対応できるレスラーに成長しましたね。
――2、3年でグラウンドの攻防をマスターし、試合展開も変化しました。かなり努力したんですね。
柴田:今は外国人選手も、新日本プロレスのロサンゼルス道場や各団体に入門して日本のプロレスを学べますが、当時はそんな場所はなかったですからね。試合前に猪木さんが教えていたんでしょう。
タイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンと並び、猪木さんが育てた最高傑作のひとりが「ハルク・ホーガン」。まさに日本育ちのレスラーです。技術が未熟すぎて、みんなが対戦したがらなかったレスラーが、世界のトップレスラーになった。素晴らしいですよ。
ホーガンの"ザ・アメリカ"な部分に憧れるレスラーもいましたね。たとえば、西村修。彼はアメリカの文化が好きで、ダイナミックなホーガンのファイトに魅了されていました。自身のファイトスタイルとはずいぶん違いますけどね。
――私も学生の時、部屋に第一回IWGPリーグ戦で優勝したホーガンのポスターを貼っていました。
柴田:1983年の第一回大会というと、猪木さんが"舌出しKO"された大会ですね。
――優勝したホーガンの表情が曇っていましたね。
柴田:ホーガンのアックスボンバーで、猪木さんは病院送り。基本、ホーガンはいい人だから、優勝した喜びより猪木さんのことを気遣ったんでしょう。
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