UFCからプロレスに復帰後、朱里が直面した最愛の母の死。そこで「人生を賭けてプロレスをやる」と誓った (3ページ目)
病中の母に「なにもできなかった」
SMASHで華名と抗争を繰り広げていた時、朱里は記者会見でこう言ったことがある。「SMASHのDIVAのベルトを獲り、もっともっと有名になって、お金を稼いで、母に恩返しがしたい。それが、わたしの信念です」――。
わたしが「話しにくいと思うのですが......」と言うと、「大丈夫です」と言いながら彼女はワンワンと泣き出した。人がこんなに泣くのを、わたしはこれまで見たことがなかった。
朱里の母は、2020年5月に突然倒れた。朱里は東京、母は神奈川に住んでいたが、夜11時頃「吐き気が止まらない」という電話が掛かってきた。母の元へ駆けつけると、嘔吐が止まらない状態。すぐに病院へ連れて行った。
朝まで付き添って、翌日、試合会場へ向かった。スターライト・キッドとのシングルマッチ。こんな時でも、プロとして試合をこなさなければならない。「このままお母さんの容態がよくならなかったらどうしよう」――不安を抱えながら試合をした。
母の病気は子宮頸がんだった。入院すると、いつも強がっている母が「怖い、死にたくない、やりたいことがいっぱいある」と朱里に訴えた。東京から1時間半かかる病院だったが、余程心細かったのだろう。「毎日来てほしい」と嘆願された。しかし試合で忙しく、コロナ禍で面会も制限されていた。
「寂しい思いをさせたんじゃないかっていうのは、今でも思います」
朱里が多忙なことを察した母は弱音を吐かなくなったが、いつも「怖い、怖い」と言っていると看護師から聞いた。そんな時、容態が悪化。突然、腎臓が悪くなり、尿が出ないためカテーテルを入れる手術をした。手術はうまくいかず、背中から管を通して尿を出す手術もした。どんどん、どんどん、悪くなっていく。モルヒネを打つと母は"よくわからない感じ"になり、「死にたくない、死にたくない」と繰り返した。朱里は「自分が代わってあげたい......」と思った。
ある日、看護師に「もう危ない状態だから、泊まってあげていいよ」と言われた。母と一緒にいたかった。しかし病院に来た兄が朱里の憔悴しきった顔を見て、「明日も試合なんだから、今日は帰りな」と言った。心身ともに疲れ果てていた彼女は、その晩、兄の家に泊まることにした。帰り際、母は「行っちゃうの?」と目で訴えているように見えた。
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