キューティー鈴木が振り返るデビュー秘話。「もっと強そうな名前がよかった」 (3ページ目)

  • 堀江ガンツ●取材・文 text by Horie Gantz
  • photo by Shogo Murakami

――秋元さんがアドバイザーとして関わったり、芸能界とのタイアップで華やかに旗揚げしたジャパン女子ですけど、観客動員には苦戦したんですよね。

「最初の後楽園ホールは満員だったんですけど、もう次の大会から『えっ!?』っていうようなお客さんの数でした。地方に行くと『選手の人数のほうが多いんじゃないかな?』っていう時もありましたし。お客さんのおばあちゃんから『ダンプ松本は何時に来るの?』って、聞かれたりしたんですよ(笑)。ジャパンはテレビ放送がなかったから、知名度が上がらなかったんです」
※ダンプ松本は、当時ライバル団体の全日本女子プロレス所属。

ジャパン女子プロレス時代のキューティー鈴木(写真:平工幸雄/アフロ)ジャパン女子プロレス時代のキューティー鈴木(写真:平工幸雄/アフロ)この記事に関連する写真を見る
――そんな中、トップのジャッキー佐藤さんと神取忍さんの間に確執が生まれて、旗揚げ1周年を前にした87年7月18日に不穏な"ケンカマッチ"が行なわれてしまうわけですよね。あの時、試合前からその兆候はあったんですか?

「あの試合が決まってから、ジャッキーさんがすごく熱心に練習されてたんですよ。私たち新人より早くから道場に来て練習されてて、『ベテランなのにすごいな』と思っていたら、当日は殴り合い、つぶし合いの試合になって......。二人の間に何があったのかはわからないけれど、私はセコンドとしてリングサイドで観ていて、怖かったし、悲しくなりましたね」

――結局、神取さんがアームロックでギブアップ勝ちしましたけど、その後、二人はどうなったんですか?

「ジャッキーさんは試合中の顔面パンチで、『人間の顔ってこんなに変わるの?』っていうくらい腫れあがっちゃったんですよ。それで翌日から欠場されたんですけど、ポスターに一番大きく載っている人だったので、欠場の挨拶のためにずっと巡業にはついてきていて。サングラスとマスクをしたまま私たちと同じ巡業バスにも乗ってたんですけど、誰も話しかけられませんでした。それで神取さんはそのままジャパン女子離脱みたいになっちゃって、ジャッキーさんもその後引退。旗揚げ1年でトップ2人がいなくなって、『ジャパン女子はもうつぶれる』って言われ始めたんです。新人の私たちは『この先、どうなっちゃうんだろう......』って、不安しかなかったですね」

「今となっては良い思い出」と現役時代を語るキューティー鈴木「今となっては良い思い出」と現役時代を語るキューティー鈴木この記事に関連する写真を見る
後編では、ジャパン女子プロレス解散後に旗揚げすることになるJWP女子プロレスでの秘話や芸能とプロレスラーの両立の苦労話を語って頂きます。

【プロフィール】
キューティー鈴木
1969年10月22日、埼玉県川口市生まれ。1986年川口市立川口女子高等学校を中退し、ジャパン女子プロレスに入団。1986年9月19日、プラム麻里子戦でデビュー。1989年、『週刊ヤングジャンプ(7月20日号)』の表紙を単独で飾るなどタレントとしても注目を集める。1992年4月3日、JWP女子プロレスに旗揚げメンバーとして参加。1998年12月27日、後楽園ホール大会で引退。引退後、リングからは離れ、2児の母として乳がん啓発運動などの活動を行なう。

【イベント情報】
キューティー鈴木 スペシャルライブ配信!「女子プロ☆3世代トーク」

・出演:キューティー鈴木、コマンドボリショイ、中森華子
・日時:7月15日(木) 20:00 - 21:00
・募集人数:30名

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