キューティー鈴木が振り返るデビュー秘話。「もっと強そうな名前がよかった」 (2ページ目)

  • 堀江ガンツ●取材・文 text by Horie Gantz
  • photo by Shogo Murakami

――プロレスラーになろうと思ったのは、どんなきっかけがあったのですか?

「中学3年の時、友達と初めて生で女子プロレスを観に行ったら感動して、『もう、これしかない!』と思ったんです。そこからプロレスラーを目指して、中学卒業前の85年1月15日、当時は成人の日で休みだった日にフジテレビまで行って、全女(全日本女子プロレス)のオーディションを受けたんですよ。その時は落ちたんですけど、受験者が思ったよりも多くなかったので、『これなら来年、合格できるかも』と思ったんです。それで高校に進学して、翌年もう一度受けようとしたんですけど、応募者が一気に増えて、書類で落とされてしまったんですよ。あの時は焦りましたね」

――クラッシュ・ギャルズの人気が爆発して、1年で志望者も激増したんですね。

「それで『また来年、受けるしかないな』と思っていたら、友達が『ジャパン女子プロレスという新しい団体ができるみたいだよ』って、雑誌を見せてくれて。藁をもつかむ思いで受けてみたら、運よく受かって。高校を1年で中退してジャパン女子に入ったんです」

――ジャパン女子に入ってみていかがでしたか?

「夢と希望いっぱいで入ったんですけど、入寮してすぐに夢はなくなりましたね(笑)。入る前は、寮生活は修学旅行の延長みたいに考えていたけど、まったくそんなかわいいものではないし。全国各地から年齢も違う人が集まって、しかもプロレスラーになろうとする人たちだからみんな気が強くて、些細なことでも揉めるし。常にギスギスしていて、練習と人間関係、両方ともすごくキツかったんです。だけど、その一方で毎日があまりにも忙しすぎたので、『辞めたい』って思う暇もなく毎日をすごして、なんとかデビューできた感じですね」

――ジャパン女子は旗揚げ当初、"プロレス版おニャン子クラブ"とか呼ばれていて。新人のリングネームは、すべてあの秋元康さんがつけていたんですよね。

「はい。秋元さんがみんなの本名と写真を見て、ポンポンと5分くらいで決めたと聞きました(笑)。だから最初、『キューティー鈴木』って聞いた時に『えーっ!』と思ったんです。私はもっと強そうな名前がよかったんですよ。でも他の候補も『アップル鈴木』『キウイ鈴木』とか果物ばかりで。『嫌だ』と言える立場でもなかったので、つけていただいた名前をありがたくいただく感じでしたね」

――他の人たちも同じような葛藤があったんでしょうね。

「そうだと思います。たとえばイーグル沢井は最初『ターボ沢井』が候補だったらしいですし、プラム麻里子は苗字が『梅田』だったから最初は『コマ梅田』になりそうだったんですよ。当時、大阪に梅田コマ劇場っていうのがあったんですよね(笑)」

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