検索

NBA伝説の名選手:ダニー・エインジ 負けん気を全面に出す「闘将」スタイルで存在感を発揮した名脇役 (3ページ目)

  • 青木 崇●文 text by Aoki Takashi

【ブルズに阻まれた3度目の王座とチーム役員として手にした王座】

 ブレイザーズではクライド・ドレクスラー、テリー・ポーターの先発ガード陣のバックアップ役を担った。NBAファイナルに進出した1992年のプレーオフでは、フェニックス・サンズとのカンファレンス準決勝、再延長にもつれ込む激戦となった第4戦で25得点の大活躍。マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズとのNBAファイナル第2戦でも、延長で9点を奪うなど17得点を奪ってシリーズを1勝1敗のタイにする要因となったが、シリーズは2勝4敗で敗れ去った。

 その直後の1992年オフ、フリーエージェントになったエインジはサンズと契約。フィラデルフィア・76ersから移籍してきたチャールズ・バークリー、オールスター司令塔のケビン・ジョンソンを擁するチームで平均11.8得点を記録し、シックスマン賞の投票で2位になった。チームもNBAファイナルに進出し、3連覇を狙うブルズ相手と死闘を繰り広げたが、サンズの初優勝、エインジにとっては自身3度目のNBA王座獲得には届かなかった。

 エインジにとっては2年連続ファイナルでブルズに屈したわけだが、特に1993年の敗戦は「あれはとても辛い敗戦だった」とのちに語るほど、悔しさの残る終戦だった。

 サンズが2勝3敗と王手をかけられて迎えたホームでの第6戦、残り14秒で2点リードしていたものの、土壇場でジョン・パクソンに3Pショットを決められて逆転負け。エインジは"ノー・スリー"(3Pはない)とチームメイトに声をかけていたが、ゴール下でボールをもらったブルズのホーレス・グラントが素早くキックアウトのパス。その結果、サンズのディフェンスはローテーションが間に合わず、パクソンにオープンの3Pショットを決められたのである。

 エインジはその後2シーズンプレーし、36歳で現役を引退。1996年5月にサンズのアシスタントコーチになったが、開幕8連敗後に解任されたコットン・フィッツシモンズに変わってヘッドコーチに就任。開幕13連敗の状況からサンズをプレーオフに進出させるなど、136勝90敗と成果を出して、1999年12月に辞任した。

 2003年にバスケットボール部門のディレクターとしてセルティックスの重役となると、2007年のドラフト当日のトレードでケビン・ガーネット(KG)、レイ・アレンというオールスター選手ふたりの獲得に成功する。大黒柱となっていたポール・ピアースとビッグスリーを構成すると、2007−08シーズンに66勝16敗のNBA最高成績を残し、1987年以来となるNBAファイナル進出。長年の宿敵であるレイカーズを4勝2敗で倒し、17回目の頂点に立った。

 エインジは、現役時代とチーム幹部として手にしたタイトル獲得の違いを、こう語っている。

「その実現(チーム幹部としての優勝)には多くの人々が関わっていた。その観点からすると、ドック(・リバースHC)が優勝を祝うのを見るのは楽しかったし、(多くの移籍を経てきた優勝経験のなかった)エディー・ハウスが優勝するのを見るのも楽しかった。チーム全体という意味でね。ポール、レイ、KGがその境地に達し、彼らの背中から(ドラフト上位指のスター選手であるという)重荷を取り除くことができた」

 2021年6月に13年間務めた社長の座を退いたエインジは、同年12月からユタ・ジャズにバスケットボール部門のCEOとして招聘され、現在も仕事に従事している。

【Profile】ダニー・エインジ(Danny Ainge)/1959年3月17日生まれ、アメリカ・オレゴン州出身。1981年NBAドラフト2巡目31位指名。
●NBA所属歴:ボストン・セルティックス(1981-82〜1988-89途)―サクラメント・キングス(1988-89途中〜1989-90)―ポートランド・トレイルブレイザーズ(1990-91〜1991-92)―フェニックス・サンズ(1992-93〜1994-95)
●NBA王座2回(1984、1986)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

著者プロフィール

  • 青木 崇

    青木 崇 (あおき・たかし)

    1968年群馬県前橋市生まれ。1992年から月刊バスケットボールとHOOP誌の編集者を務めた後、1998年に独立して渡米。アメリカ・ミシガン州を拠点にNBA、NCAA、数々のFIBA国際大会を取材。2011年から拠点を日本に戻して活動を続け、Bリーグの試合で解説者も務めている。

3 / 3

キーワード

このページのトップに戻る