検索

マルコ・ファン・バステンが30歳で引退していなければ...「バロンドール受賞が3回だけってことはない」 (2ページ目)

  • 粕谷秀樹●取材・文 text by Kasuya Hideki

【マルコのいないサン・シーロは...】

 ファン・バステンを筆頭に、フランク・ライカールト、ルート・フリット、ロナルド・クーマンなど、オランダは綺羅星のごときスターを揃えていた。

 ところが、人種間で揉める。戦略・戦術をめぐり、主力とレオ・ベーンハッカー監督が対立する。チームは空中分解し、まさかのラウンド16で散った。

 当時のオランダは、常に同様のトラブルにつきまとわれた。4年後のアメリカ・ワールドカップでもディック・アドフォカート監督とフリットのソリが合わず、さらにクーマンによる肌の色に関する不用意な発言もあって、アフリカをルーツとする選手たちの怒りを買った。

 他国がうらやむほどのタレントを数多く輩出しながら、オランダは1988年のヨーロッパ選手権以降、メジャータイトルを一度も獲得していない。

「代表チームはいろいろな軋轢があって、何かと面倒くさいんだよ」

 ACミランの一員として来日した時、ファン・バステンはそうこぼしていた。

 テクニカルな選手を育てるアヤックスユースの出身だけに、188cmという高長身でも、足もとのボールコントロールは際立っていた。左右両足で硬軟自在のシュートを放ち、サイドに流れても中盤に降りても高度なタスクをこなす。

 ミランで同じ釜の飯を食ったフランコ・バレージが「パーフェクトストライカー」と絶賛するほど、全盛期のファン・バステンは非の打ちどころがなかった。

 ドリブルも秀逸だった。リズムに変化をつけたステップはDFを無力化し、一気にスピードアップして見下ろす。

 しかし、狙われる。セリエAの荒くれDFはボールではなく、ファン・バステンの足をめがけて、邪悪なタックルを仕掛けた。くるぶし、足首、スネ......。ダメージが蓄積していく。

 特に、かかとの負傷は深刻だった。ミランのメディカルスタッフが作った特殊なパッドもさして役に立たず、痛みが和らぐことはなかったという。

 徐々にプレーに支障をきたし、ファン・バステンはピッチから遠ざかっていく。そして1995年、30歳の若さで引退──。ミラニスタは「マルコのいないサン・シーロは、羽根のない風車だ」というバナーを掲げ、早すぎる別れを惜しんだ

2 / 4

キーワード

このページのトップに戻る