旗手怜央が振り返るわずか4年間の「FW時代」だがそれがセルティックでのゴール&アシストに生きている (2ページ目)
【1年生のある日、MFからFWへ】
大学に入学した当初は、2つ年上の米田さんが左サイドハーフのレギュラーとして活躍していた。そのため、自分に出場機会が巡ってくるのは、米田さんが卒業したあとの大学3年になってからという心づもりもあった。そこからの2年間で、しっかりとアピールして、どこかJリーグのチームに加入することができればと、自分のキャリアに思いを巡らせていたものだ。
ところが努力の甲斐もあって、大学1年だった2016年の関東1部リーグ開幕戦にメンバー入りした。そして途中出場する幸運にも恵まれたのだが、当時の登録はMFだったように、ポジションはサイドハーフだった。
大学時代の出来事のため、明確な時期や経緯は覚えていないが、MFとして徐々に先発する機会が増えていたある日、FWへと抜擢された。
これが自分のキャリアを大きく左右する転機になった。
それまでは名古さんがFWとしてプレーしていたが、名古さんは逆に1列下がり、自分がセカンドトップのような役割を任された。同級生の浮田健誠(AC長野パルセイロ)と2トップを組むことになったのだ。
FWという自覚が芽生えたのは、夏に行なわれた総理大臣杯・全日本大学サッカートーナメントだった。1回戦で2得点したのを皮切りに、準決勝まですべての試合でゴールを奪い、4試合で5ゴールを記録した。決勝で明治大学に0−1で敗れ、準優勝に終わったのは自分が得点できなかったからだと思っている。
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