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奥寺康彦が語るドイツでの日本人評価の現状「活躍できると見られていない」 (3ページ目)

  • 篠 幸彦●取材・文 text by Shino Yukihiko
  • photo by Getty Images

――奥寺さんはそれまで、ずっとウイングで活躍されていましたけど、サイドバックにコンバートされたのは?

「それがヘルタ・ベルリン時代です。ある日、右サイドバックの選手が病気で出られなくなったと。それで、試合当日ですよ。監督に右サイドバックをやってくれと言われて、さすがにやったことがないからできませんと言ったんだけど、監督は『チームを見たらやれそうなのがお前しかいない』って言うんですよ」

――それで仕方なくやったわけですね。

「そう。でも仕方なくやったら、これがめちゃくちゃ面白かった。もう前にスペースがあって、そこへガンガン攻めて行けたので、ドリブルで上がっていってセンタリングをあげたり、中へ切り込んでシュートしたり」

――果敢に攻撃参加するモダンなサイドバックだったんですね。

「新たな自分を発見しましたね。その右サイドバックでのプレーを見て、ブレーメンで監督をしていたレーハーゲルが僕を呼んだんですよ。最初に『お前はどこのポジションがやりたい?』と聞かれたので、僕は『MFがやりたいです』と言ったんですけどね。それで移籍して『お前をここで使いたい』と言われたのが右サイドバックでした」

――最初から右サイドバックとして評価されていたわけですね。

「うれしかったのが『なんでお前はゾーンディフェンスができるんだ?』と聞かれたんです。ドイツは当時マンツーマンが主流でしたから。『なんでお前はマンツーマンで相手についていかないんだ。そんな守備どこで教わったんだ?』と聞くわけですよ。僕は『昔から感覚でやってましたよ』と。

 それでレーハーゲルは『じつはそういうことをチームでやりたいんだ。だから右サイドバックをやってほしい』と言われて、ブレーメンでも右サイドバックをやるようになったんです。その後は、FWからDFまでいろんなポジションをやらされて、重宝がられましたね」

――レーハーゲル監督も名将ですが、どんな人物でしたか?

「彼は弱小チームを強くする才能がありましたね。当時のブレーメンもまさにそうで、エレベーターチームと言われて1部に上がってはすぐ2部に落ちるようなチームでした。それをレーハーゲルが2部から1部に引き上げたんですね」

※オットー・レーハーゲル...80年代後半から90年代に、ブレーメンやカイザースラウテルンをブンデスリーガ制覇に導いた名将。04年にはギリシャ代表を率いてユーロ2004で初優勝し、世界中を驚かせた。

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