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ベンゲル最大の功績は、名古屋から移って
すぐに断行したプレミア改革 (2ページ目)

  • 中山淳●取材・文 text by Nakayama Atsushi
  • photo by AFLO

 それに追い打ちをかけたのが、ヨーロッパサッカー界の趨勢を大きく変えた「ボスマン裁定」だった。それにより、1996年から各クラブはEU内国籍の選手を制限なく保有できることになり、一流選手が資金力のあるイタリア、スペイン、ドイツの名門クラブに流入。プレミアリーグでは例外的にチェルシーだけが選手の国際化に着手したにすぎなかった。

 そんななか、時代に取り残されることを懸念した当時のアーセナル会長ピーター・ヒルウッドが英断を下す。彼は選手に投資するのではなく、大陸出身のマネージャー(監督)に全権を託すことで、クラブの国際化を進めようと考えたのである。そしてその旗印として白羽の矢を立てたのが、かつてフランスでモナコを常勝軍団に育て上げ、当時名古屋グランパスで指揮を執っていたベンゲルだった。

 当時のプレミアクラブの監督は、基本的に英国およびアイルランド出身の指導者で占められていた。1996−1997シーズンは、グレン・ホドルがイングランド代表監督に就任したことにより、チェルシーではオランダ人のルート・フリットがプレーイングマネージャー(選手兼監督)を務めることになったが、ベンゲルの到着を待っていたアーセナルもスコットランド人のスチュワート・ヒューストンが監督を務めていた(開幕直後に解任され、その後は北アイルランド人のパット・ライスが暫定監督を務めた)。

 今でこそ外国人監督主流の時代にあるプレミアリーグではあるが、その時代にフランス人監督を招聘すること自体が大きな賭け。イングランドで無名に近かったベンゲルに対して疑問の声が上がったのも当然で、クラブ史上初の英国外出身監督となったベンゲルのプレミアリーグでの船出は、まさに逆風にさらされていた。

 ところが、ベンゲルがチームに注入した「大陸の血」は、ほどなくして効果を示す。

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