清武弘嗣はなぜ、過酷なリハビリに挑み続けるのか 「温かい応援に甘んじず、結果で応える姿を取り戻さなきゃいけない」 (2ページ目)
「僕自身はケガもあったし、シーズンを通して稼動できたわけではなかったけど、最初にセレッソに在籍した時代を思い出すような、たくさんのいい仲間に恵まれました。蛍(山口/現V・ファーレン長崎)、宏太(水沼/現ニューカッスル・ユナイテッド・ジェッツ)、(柿谷)曜一朗、健勇(杉本/現大宮アルディージャ)ら、互いを高められる同世代も多く、本当にみんなに助けられ、引き上げてもらいながら、その仲間とふたつのタイトルを獲れたのもめちゃくちゃうれしかったです。
僕自身はあまり力になれなかったけど、自分にとってはすごく意味深いシーズンだったし、こういう瞬間をもっともっとセレッソで味わいたいという思いがより強くなった"タイトル"でした」
もっともその思いとは裏腹に、以降のシーズンはケガに苦しみながらキャリアを積み上げることになったのは、前編でも記したとおりだ。復帰後初めて、シーズンを通してフル稼働できた2020年は8ゴール8アシストと結果を残し、リーグ4位の原動力になったものの、2022年半ば以降は長期離脱を強いられるケガも増え、出場機会を大きく減らしてしまう。
それでも、そのたびにリハビリに全力を尽くし、ピッチに戻ることを目指しながら戦い続けたなかで2024年は、クラブ設立30周年の節目のシーズンだったのもあってだろう。シーズン前のキャンプからチームとスタートを切れたことも追い風に「もう一度、タイトルを」という思いを強めていたが、結果的には思うように試合に絡めず、同年夏にはサガン鳥栖への期限付き移籍を決断する。
「2023年は2月に左ハムストリングを痛めて、7月には一旦復帰して天皇杯にも出場したんですけど、翌日の練習でスプリントした際にまた同じ箇所を痛めてしまって。メディカルスタッフとも相談し、7月末にオペに踏み切ったんです。
そのなかで、リーグのラスト2試合には限られた時間ながらピッチに立てたし、その流れでスタートした2024年も、クラブの節目の年にタイトルを、という思いで臨んでいました。だからこそ結果的に、何も残せずにセレッソを離れることになった自分が悔しく、情けなかったし、応援してくれるファン・サポーターの皆さんにも申し訳ない気持ちしかなかったです。
ただ、体の状態がよくなっているのを感じていたからこそ、試合に出たい、出なくちゃいけないという思いも日に日に強くなっていたし、試合に出場しないと戻っていかない感覚があるのも自覚していたので。後ろ髪を引かれながらも『サッカー選手としてのキャリアを続けたいのなら』と、半ば自分で自分のケツを叩くようにセレッソを離れる決心をしました」
その鳥栖で過ごした2024年7月からの半年間は、再びサッカーの楽しさを思い出しながら、サッカー選手として「まだまだやれることがある」と思える時間になった。
「期限付き移籍をする前から鳥栖の選手には、(監督の川井)健太さんのサッカーはめちゃくちゃ面白いと聞いていて、それも鳥栖に行く決め手になったんですけど、本当に健太さんのサッカー観やチームづくりは、超面白かったです。現代的な縦に速いサッカーではあるんですけど、一つひとつの動きに明確な理論があって、なるほど! と思うことも多く毎日、練習に行くのが楽しみでした」
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