オシムを日本に呼んだ男・祖母井秀隆はなぜ最後に日本人監督を選んだのか (2ページ目)
そして切り札がオシムだった。このボスニア人が2003年にジェフの指揮官に着任してからの衝撃は、今さら書くまでもない。残留争いの常連と言われていたジェフに人もボールも走る先進的なサッカーで初戴冠(2005年ナビスコカップ)をもたらし、2006年には日本代表監督に就任。翌年、志半ばで病に倒れるもサラエボに帰国後は3つの民族に分裂していた祖国のサッカー協会を統一してW杯ブラジル大会に導いた。オシムは2022年5月1日にその生涯を閉じたが、サラエボ、グラーツ、そして日本と指導者として関わったそれぞれの地で追悼の催しが行なわれた。没後、オシムが成し遂げた偉大な功績を知ると同時に、あらためてこの人物を2003年に招聘した祖母井の慧眼と行動力を感じる。
その祖母井が「私が選んだおそらく最後となる監督がいるのでぜひ会って欲しい」と言うので、客員教授を務めている淑徳大学まで会いに行った。同大学サッカー部のGMとして選任したのは、上島達也監督。そこにいたのは、まったく無名の日本人監督であった。『「監督を決める」仕事―世界が認めた日本人GMの 逃げないマネジメント』(ダイヤモンド社)という著書を出し、「ヨーロッパサッカー100年の知恵」が欲しいから、との理由で外国人監督にこだわっていた祖母井がなぜ上島を選んだのか? この問いの答えから、今の日本サッカーと日本社会が透視されてきた。祖母井が言う。
「私はサッカーを通じて、若い人たちの人生が豊かになって欲しいと思って大学でも教えて来ました。ところが、今の日本社会は人や物事に対する評価がすべて数字になっている。人間には点数ではすぐに測り知れない能力が潜在的にあるんですよ。大阪体育大学で二軍の選手を受け持ったときも選手たちの可能性を押さえつけずに育てて来ました」
祖母井が大阪体育大サッカー部を指導していた1980年代、同大学は選抜された一軍の学生だけがグラウンドを使用でき、二軍はハーフコート、三軍は走るだけというメニューだった。同じ部費を払っているのにおかしいではないかと、部長に対して声を上げた祖母井はグランド使用率を同じにした。二軍の選手を育て上げ、トップのチームを追い落とすところまで押し上げた。潜在的な能力を認めようとせず、サッカーをする機会さえ奪ってしまう在り方に疑義を呈して、二軍に落とされていた選手たちで結果を出した。
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