サッカーを伝え続けた稀代の語り部・賀川浩さんのすごさ 際立ったプレー描写を支えた3つの視点 (2ページ目)
【際立っていたプレーの描写】
旧制中学校というのは現在の高校に当たる。また、「師範学校」というのは教師を養成するための機関で、学校制度の関係で旧制中学校より2歳年長だった。少年たちにとって2歳の年齢差は大きい。体格やフィジカル面で、当然、師範学校のほうが圧倒的に有利だった。
このハンディキャップを克服するために、神戸一中はショートパスを駆使するサッカーを追求した。その結果、全国のチームが参加するようになった第9回大会以後も含めて合計7回の優勝を飾り、賀川浩さんの実兄の賀川太郎や右近徳太郎、二宮洋一など数多くの日本代表選手を輩出することになった。
神戸一中は、パスサッカーを武器とする現在の日本のスタイルの源流と考えることもできるだろう。
日本に本格的にパスサッカーを伝えたのは、実はビルマ(現ミャンマー)からの留学生チョウ・ディンだったのだが、彼が御影師範の招きで神戸を訪れた時に神戸一中の生徒たちはチョウ・ディンを待ち伏せして短時間のコーチを受けた。それが、神戸一中がショートパスを習得するきっかけだったというのだ。
とても面白いエピソードだが、神戸のサッカーについてのそういった数々のエピソードが現在に伝わっているのも、賀川さんという稀代の語り部がいたからこそだ。
神戸一中に入学した賀川さんだったが、体が小さかったために最初はコーチのような役割を果たしており、その後選手としても活躍するようになった。つまり、賀川さんは若い時からコーチとして、選手としてサッカーと関わってきたのだ。周囲には実兄をはじめ、先輩、同級生、後輩などに、当時の日本を代表するような選手が何人もいるというすばらしい環境だった。
そんな経歴もあって、賀川さんのサッカー記事におけるプレーの描写は際立っていた。
パスを回したり、ドリブルで仕掛けたりしながらゴールを陥れるための経過を過不足なく描き出す記事というのは、実はとても難しい仕事だ。だが、賀川さんの手にかかるとパスがどのように回ったのかという経過だけではなく、その間にFWとDFの間にどんな駆け引きがあったか、味方同士でどのようなコミュニケーションが行なわれたかが、テンポよく描き出される。
それは、賀川さんが選手としての視点、コーチとしての視点、そして観戦を楽しむ者としての視点を兼ね備えていたからにほかならない。さらに、賀川さんは国際都市、神戸生まれならではの国際感覚を兼ね備えており、サッカーのプレーを描く際にも、そうした世界の地理や文化についての知識が話に深みをもたらしていた。
第二次世界大戦末期には特攻隊員として朝鮮半島にいた賀川さんだが、出撃直前の1945年8月に終戦となったため、無事に日本に復員することになった(賀川さんは自動車の運転免許は持っていなかったが、飛行機は操縦できたのだ!)。そして、戦後の日本でサッカーの記事を書き、『産経新聞』や『サンケイスポーツ』で活躍するようになった。
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