「アントラーズの嫌われ役になる」本田泰人はキャプテン就任で決めた (2ページ目)

  • 寺野典子●文 text by Terano Noriko 井坂英樹●写真 photo by Isaka Hideki

ジーコからキャプテンを継いだ本田泰人。当時の苦労話を語ってくれたジーコからキャプテンを継いだ本田泰人。当時の苦労話を語ってくれた 試合後、大岩剛監督も評価している。

 第2戦は敵地上海で、5月16日に行なわれる。鬼門を突破し、クラブの歴史を変えられるか。

「ラウンド16(の突破)よりも、優勝して歴史を変えたい」と植田直通。

 ホームで牙を剥くであろう、上海上港をどう退けるのか?

 *    *    *

 クラブの象徴であるジーコの薫陶を受けた本田泰人は1994年、25歳のときにキャプテンに就任する。現在の鹿島アントラーズにまで繋がる"フォア・ザ・チーム"という姿勢を若い選手たちに伝えようと奮闘した。クラブのスピリットを選手間で受け継ぎ、ピッチ上で選手を育てていくというアントラーズの強みを築くことになる。

――キャプテンに指名されたときのことを教えてください。

「指名というか、ジーコが出ていない試合でサントスがキャプテンマークをつけていたとき、サントスが交代することになり、誰がキャプテンをするのかなと思っていたら、『本田、お前だ! 自覚しろ』と、ベンチにいたエドゥ監督(※1)に怒鳴られたんです。そこから、僕がキャプテンを務めるようになったんです。ジーコのあとを継ぐようにキャプテンを任されたわけですけど、最初は本当に悩みましたね。キャプテンなんて初めてのことだったから」
※1 1994~1995年、鹿島アントラーズを率いる。ジーコの実兄で、ブラジル代表監督を務めたこともある。

――初めてなんですか? 生まれながらのキャプテンみたいな印象がありました(笑)。

「確かに目標へ向かって、チームをまとめるという仕事は昔からやっていたけれど、帝京高校時代もキャプテンは礒貝洋光(※2)だったから(笑)。気は強いし、目標を達成するためには嫌われることも厭(いと)わず、思ったことを口にするし、行動する僕の性格をジーコは見抜いていたんでしょうね。
※2 帝京高校で1年生から10番を背負い、「天才」と言われた。本田泰人、森山泰行らと同期。Jリーグガンバ大阪、浦和レッズで活躍。29歳で引退。

 でも当時、まだ25歳かそこらですからね。そんな僕にキャプテンを任せるというのには驚きがありましたし、正直、不安みたいなものは感じましたよ。それこそ自分のプレーだけで精いっぱいという状況に加えて、キャプテンという重責を担えるのかなと。だから、シンプルに考えようと思ったんです。『チームのために』という部分を大事にしようと。だから、嫌われ役をやろうと思いました。ジーコやクラブからの信頼も感じていたので、思ったことをやり通そうと」

――"嫌われてもいい"じゃなく、嫌われ役に。

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