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恩返しの「アーセナル学校」。
ベンゲルが日本サッカー界に残したもの (4ページ目)

  • 飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushi

日本サッカー界に生きるベンゲルのスピリット

 アーセナルにかつての指揮官を訪ねたのは、中西と平野だけではない。

 1998年のシーズン前には、通訳の村上剛に付き添われ、当時20歳の福田健二と19歳だった古賀正紘がアーセナルに短期留学を行なっている。

 また、大岩剛、森山泰行、飯島寿久といったかつての主力選手たちは、S級ライセンス取得のための研修をベンゲルのもとで行なった。現在AC長野パルセイロを率いる浅野哲也は、アビスパ福岡のコーチ時代に同僚とともに練習見学を許された。

 ある日、中西はベンゲルに訊ねたことがある。なぜ、そこまでしてくれるのか、と。

「そうしたらベンゲルは『当然だろう。私はそれだけ日本で多くの人のお世話になったし、日本からたくさんのことを学ばせてもらったんだから』って答えたんです」

 ベンゲルのプロデュースによって1999年10月に落成(らくせい)したクラブハウスには、日本のエッセンスが散りばめられている。クラブハウス正面の人工池は日本庭園を連想させ、クラブハウスは土足厳禁でスリッパに履き替える方式なのだ。

「ベンゲルはすごく義理堅くて、感謝を忘れません。だから、僕もベンゲルから学んだことを日本サッカー界に残したいと思いました。今、久保建英選手をはじめ、いろんな現役の選手たちに無償で技術トレーニングの指導をしているのは、ベンゲルの影響からなんです」

 引退後、すぐに鹿島のコーチングスタッフの一員となった大岩は、指導者の道を歩み始めたことで、あらためてベンゲルのすごさに気づいたという。

「指導者になって実感するのは、伝えることの難しさです。1から10まで伝えたら、選手に響くものがなくなったりします。重要なことをいかにシンプルに伝えるか。ベンゲルはそういうのがうまかった。それに、選手の特長を見抜いて、それをどこで生かすか、という目に長(た)けていましたよね」

ベンゲルに見出され、自らも指揮官となった大岩剛 photo by Murakami Shogoベンゲルに見出され、自らも指揮官となった大岩剛 photo by Murakami Shogo そう語る大岩自身がまさに、左サイドバックからセンターバックにコンバートされたことによって、38歳まで現役生活を続けることが可能になったのだ。

「実際にはベンゲルの指導を受けたのはわずか1年半だけです。もちろん当時もすごいと感じていましたけど、本当にすごい監督だったんだなって実感するのは、アーセナルのハード面も選手もすべて変えて、なおかつ結果を出してから。それに、自分が引退して指導者になって、ベンゲルのやってきたことが身に染みてわかるというか......。選手と指導者では立場がまるで違うから、同じ立場になってから、どんどんベンゲルの存在が大きくなっているんですよ」

 小倉は2017年4月、グランパスの幹部とともにアーセナルを訪れた。

 アーセナルの監督に就任して20年目を迎えたベンゲルは、当時、成績不振で周囲から叩かれていた。本拠地エミレーツ・スタジアムのスタンドにも、練習場の入り口にも、「Wenger Out」と記された横断幕が掲げられ、厳しく糾弾されていた。

「ちょっと異様な雰囲気だったけど、そんな状況でもベンゲルは受け入れてくれました。勉強したかったから、俺だけ残って練習や試合を見せてもらったんですけど、また、いつ来てもいいから連絡するように、と言ってくれました」

 小倉にとってベンゲルとの出会いは、自身のサッカー観や、その後の人生を大きく左右するものだった。

「監督でこれだけチームは変わるんだ、っていうのは衝撃的だったし、将来、監督をやりたいな、って意識させてくれたのもベンゲルでした。その前にオランダでプレーしていたけれど、トップのトレーニングや考え方に日本で触れられたのは大きかった。練習に行くのが楽しかったからね。俺は一度、監督としては失敗してしまったけど、コーチの勉強をし直して、もう一度頑張りたいです」

 そう語った小倉は、夏に再びヨーロッパを訪れ、約3カ月間、精力的にヨーロッパのサッカーシーンと指導の現場を見て回った。

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