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恩返しの「アーセナル学校」。
ベンゲルが日本サッカー界に残したもの (3ページ目)

  • 飯尾篤史●取材・文 text by Iio Atsushi

 日本に帰国したあと、平野はサンガに退団を申し入れ、鹿島アントラーズとの2強時代を築いていたジュビロ磐田への移籍を決める。ジュビロが伝説のシステム、「N-BOX」を生み出す直前のことである。

 平野はその後、現役時代に2度、アーセナルを訪ねている。いずれもサッカー人生の分岐点を前に悩んでいるときだった。

「2度目はヴェルディで3年間プレーして、J2に降格してしまったとき。3度目は引退するかどうか悩んでいるときでした。ベンゲルはいつも僕を受け入れてくれましたし、引退した後も、毎年のように勉強しにいっていました」

 ベンゲルの教えを本にして広めた中西哲生 photo by Tanaka Wataru ベンゲルの教えを本にして広めた中西哲生 photo by Tanaka Wataru 一方、平野とともに練習に参加した中西が強い印象を受けたのは、間合いの違いだ。

「練習メニューはグランパスと同じだったから、僕もついていけたんです。でも、ワールドクラスの選手たちと一緒にやってわかったのは、間合いが圧倒的に違うこと。アンリなんか、2mぐらい前から仕掛けてきて、僕はボールを奪うどころか体にすら触れられなかった。一方で、ビエイラは届かないんじゃないかっていうくらい遠くからタックルしてくるんですけど、ガツンとやられる。これはすごいなと」


 練習メニューが同じであることに感じ入った中西は、日本サッカー界のためにこの練習メニューを世に出すことを決意する。

「現役時代、ベンゲルの練習メニューや、彼がミーティングで言ったことを英語ですべてメモしていたんです。自分が将来、指導者になったときに役立てようと思っていたんですけど、2度目にアーセナルを訪ねた際、ベンゲルに『本にして出したい』と言ったんです。そうしたらベンゲルが、『お前が昔、メモを取っていたあれか。それでお前は儲かるのか』と聞いてきたから、『儲かるかどうかはわからない。だけど、日本サッカー界のためになると思う』と答えると、『そうか、それなら出していい』と」

 こうして、ベンゲルのトレーニングメニューをまとめた『ベンゲルノート』が完成し、日本サッカー界のひとつの財産として、広く共有されることとなった。

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