鹿実も野洲も『時之栖』をステップに高校サッカー日本一になった (2ページ目)

  • 浅田真樹●文 text by Asada Masaki

「『お前の電話は縁起が悪いな。正月は絶対行くから、もう電話をしてくるな』と嫌がられたこともありました」

 阿山さんが「ここまで認知される大会になるとは思いませんでした」と振り返るのも無理はない。今では「『どうやったら出られるのか?』という問い合わせを受けるほど、知られるようになりました」。

 とはいえ、この大会がこれだけ広く知られるようになったのは、ただ長く続けてきたことだけが理由ではない。阿山さんの上司である阿部さんが、各種施設を「利用者目線」で充実させてきたのと同じように、この大会もまた、出場チームにとって「かゆいところに手が届く」大会であったことが、大きな理由のひとつだろう。

 たとえば、九州から参加している高校が決勝に進出したときのことだ。その高校は決勝の試合をやっていると、どうしても帰りのフェリーに間に合わないという事態が起きた。そこで阿山さんは対戦相手に了解を取り、決勝を行なわずに両校優勝とした。杓子定規ではない、阿山さんのそんな機転が大会をより充実したものにしているのは間違いない。

 また、試合中に退場者が出た場合、交代選手の中からひとり補充できるのも、この大会ならではのルールだ。阿山さんいわく、「研修大会なのだからと、阿部先生が作ったルールです。大会を始めたときから、このルールで行なわれています」。

 そんな大会が『裏選手権』と呼ばれるようになったのは、12年ほど前のことだ。阿山さんの述懐である。

「2004年1月に行なわれた時之栖カップの決勝で、鹿児島実業と市立船橋が対戦し、鹿児島実業が優勝したのですが、次の年(2005年1月)の高校選手権の決勝が同じカードになり、そこでも鹿児島実業が優勝したんです。これはすごいなと思っていたら、その年(2005年1月)の時之栖カップで優勝した野洲も、次の年(2006年1月)の選手権で優勝してしまった。そのあたりから、時之栖カップと選手権との関連性が話題となり、『裏選手権』と言われるようになってきたんです」

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