W杯本番が間近に迫るドイツの地で、中田英寿が孤立。ジーコジャパン、そして田中誠に暗雲が立ち込める (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki

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「加茂さんの時も、トルシエの時も(招集されながら)試合に出られないまま終わってしまったので、(その時は)今度こそは絶対に代表でレギュラーの座をつかみとってやろうと思っていましたし、その自信もありました。2000年前後にジュビロが強くなって、当時はJリーグで最高のチームだと自負していましたし、そのチームの主力になって、自分も(代表で)やれると思っていたので」

 東欧遠征の初戦、ハンガリー戦(2-3)で田中はスタメン出場を果たし、3バックの中央でプレーした。続くチェコ戦にも出場し、1-0の勝利に貢献した。

「この時は、ツネ(宮本恒靖)が参加していなかったので起用されたけど、ジーコさんの信頼を得られたかどうかは、微妙な感じでしたね」

 田中がジーコからの信頼を勝ち得たかもしれないと思ったのは、2004年7月のキリンカップだった。その頃の3バックは、中央に宮本、左に中澤佑二、右が坪井慶介というのが基本形だった。初戦のスロバキア戦もその面子が先発したが、47分に坪井が負傷し、田中に出番が回ってきた。

「坪井が負傷して、『行くぞ』と呼ばれて出番が回ってきたんですけど、その時に安定したプレーができたのが大きかったのかなと思います。ジーコさんは1回いいプレーをすると、次も呼んでくれるし、使ってくれるんですよ。その時も、次戦のセルビア・モンテネグロ戦も使ってもらって1-0で勝ったんですけど、そこでひとつ、ジーコさんの評価を得られたかなという実感がありました」

 セルビア・モンテネグロ戦は、その1週間後に始まる2004年アジアカップ中国大会の壮行試合も兼ねていた。その試合で無失点勝利に貢献した田中は、続くアジアカップでも主力組となり、初戦のオマーン戦でスタメン出場した。

 そこで田中は、今まで感じたことのない緊張感に襲われた。

「それまで僕が出ていたのは親善試合なので、気持ち的に余裕があったんです。でも、アジアカップは公式戦。負けられないじゃないですか。日本代表の試合でミスができない重圧を感じていたこともあって、キックオフ直後のファーストタッチでミスったんです。ディフェンスに返ってきたボールを蹴ったんですけど、ゴルフで言うシャンクみたいになって、変なところに飛んでいった(苦笑)。それだけビビッているんだなって、自覚しましたね」

 それ以降は落ち着きをとり戻し、チームも1-0で初戦をモノにした。田中は、決勝の中国戦まで全6試合に出場し、日本のアジア制覇に貢献した。

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