トルシエが幾度となく悔やんだトルコ戦。「指揮官は私ではなく、オシムのほうが適任だったかもしれない」 (3ページ目)
また、鈴木隆行は持てる力以上のものを発揮した。宮本恒靖もそうだったかもしれない。彼は負傷を抱えていたが、その知性はチームに大きく貢献した。宮本を含めた4人が、プラスアルファをもたらしてくれた。
逆に、小野伸二は直前に虫垂炎を患い本調子ではなく、自身が望んだようなW杯にはならなかった。本人は最高のW杯にしたかっただろうが......。
中田英寿は(彼の)実力に見合うものを大会で見せたが、それ以上ではなかった。彼にはそれ以上を期待したが、そこは叶わなかった。他の選手もレベルに相応しい活躍だった。誰もが自分の力に相応しいプレーをした。
惜しかったのは、西澤明訓。彼は手術直後でプレーの機会が限られた。さらに(エコノミークラス症候群によってチーム離脱した)高原直泰の欠場は、本当に残念だった。
繰り返すが、私が最も満足したのは戸田と稲本で、ふたりはレベル以上だった。他は自分の力を出しきった。その意味で、私の期待どおりだった。小野だけが病気のために力を出しきれなかった。本人も悔しかっただろう」
そして2002年6月18日、宮城スタジアム。日本は、運命のトルコ戦(0-1で敗戦)を迎える。試合前のミーティングで選手にかけた言葉を、トルシエは今もはっきり覚えている。
「トルコ戦の前に(私は)こう言った。
『これは君たちにとって、2006年W杯に向けての初戦になる。2006年への道はここから始まる。グループリーグ突破という我々の目的は達成された。ここから先はボーナスだ。このボーナスは、君たち自身が責任を持って向き合うべきものだ。ユニフォームの重さをより感じながら。
君たちは、すでに世界に認められている。W杯のセカンドラウンドに進める力があることを証明した。今、君たちは自分たちで責任を持たねばならない』と」
トルコ戦を準備する段階で、トルシエは選手に彼らが負うべき責任感を自覚させたかった。監督の束縛を離れ、自らの責任で戦うことが2006年に向けての第一歩であることを。
「だが、もしかしたらそれは間違っていたのかもしれない」と彼は続ける。
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