トルシエが幾度となく悔やんだトルコ戦。「指揮官は私ではなく、オシムのほうが適任だったかもしれない」

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi
  • photo by Press Association/AFLO

フィリップ・トルシエの哲学
連載 第1回
日韓W杯の選手選考を語る(3)

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 2002年5月、欧州遠征(レアル・マドリードに0-1、ノルウェーに0-3と連敗)から戻った日本代表は、W杯本番に挑む23人のメンバーも発表され、スウェーデンとの大会前最後のテストマッチも消化した(2002年5月25日/東京・国立競技場。1-1の引き分け)。

 その後、W杯開催中のチームの拠点となる静岡県袋井市の葛城北の丸に移動。ベルギーとの初戦に備えた――。

 欧州遠征、特にその大半を過ごしたスペイン合宿を、フィリップ・トルシエは「あまりいい準備とは言えなかった」と振り返る。

「この遠征は国外に出て、日本とは異なる環境に触れ、レアル・マドリードと対戦するという栄誉は得た。それは経験を積むという意味で、日本にとってはよかったかもしれないが、準備そのものとしては、決してそうではなかった。時間が過ぎるばかりで、憂鬱が蓄積した」

 合宿地は人里離れたマルベージャ。トルシエ好みの世間の騒音から隔離された静かな場所だったが、「W杯の準備としては記憶に残ってはいない」と彼は言う。

「ホテルはごく並みだったし、練習場は遠くピッチも悪かった。チームの雰囲気に釣り合った合宿とは言えなかった。レアル・マドリードの100周年記念で招待されての遠征だから受け入れたが、理想的な準備からは程遠く、ミッションとして"旅行を敢行した"という感じだった。緊張感も感じられなかった。親善試合の準備という感じで、雰囲気は緩かった。

 しかし、もしかしたらそれでよかったのかもしれない。というのも、グループは完成しており、今さらW杯に向けて特別な準備は必要なかったからだ。スペイン遠征は、レアルの100周年を祝うことが目的で、観光的な要素が強かった」

 のんびりしたムードのなか、選手たちは(自らの運命を分ける)W杯のメンバー発表に不安を募らせていたが、「グループは強固だった」とトルシエは振り返る。

「彼らはよく教育されていた。日本の場合、準備に関しては問題なかった。ほぼすべての選手が国内組であるからだ。4年かけて、できる限りの準備をすることができた」

 スウェーデン戦の翌日、チームは葛城北の丸へと移動。トルシエが当時の様子を語る。

「葛城北の丸に足を踏み入れる瞬間に、チームの完成と準備の完了、モチベーション、ディターミネーションを強く感じた。(チームは)落ち着いていたし、自信にも溢れていた。やるべきことはすべてやった。すべては整ったと強く思った」

 欧州遠征の宿泊地マルベージャとは異なり、葛城北の丸の環境はすばらしかった。W杯を戦うためのベースに相応しく、すべてが整っており、チームは落ち着いて試合に向けて集中することができた。

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