トルシエが振り返る日韓W杯。2001年11月のイタリア戦で「W杯を戦うチームは出来上がっていた」

  • 田村修一●取材・文 text by Tamura Shuichi
  • photo by REUTERS/AFLO

フィリップ・トルシエの哲学
連載 第1回
日韓W杯の選手選考を語る(1)

 2002年に開催された日韓W杯で、本大会を戦うメンバー23人に誰が選ばれるかは国民的な関心事であった。当時の日本代表監督であったフィリップ・トルシエと彼をサポートするスタッフたちは、一体どんなプロセスを経てW杯の日本代表を選出したのか。そしてその結果を、トルシエはどう見ているのか。

 多くの証言から全貌が明らかになりつつある選出の過程を、トルシエ自身の言葉で3回に分けて明らかにする。その第1回は、「W杯を戦うグループが完成した」とトルシエが確信した2001年11月7日の日本vsイタリア戦(埼玉スタジアム。1-1の引き分け)までの話である――。

2001年11月のイタリア戦で「W杯を戦うチームが出来上がった」と語るトルシエ氏2001年11月のイタリア戦で「W杯を戦うチームが出来上がった」と語るトルシエ氏この記事に関連する写真を見る「グループは出来上がった。ワールドカップが明日始まっても、私たちは戦うことができる」

 トルシエがそう高らかに宣言したのは、イタリア戦後の記者会見においてだった。

 今日とは異なり、イタリア・セリエAは当時世界最高峰のリーグであり、その精鋭であるイタリア代表を迎えた試合で、日本は互角の戦いを演じた。直前の来日でコンディションは万全ではなかったとはいえ、イタリアはほぼベストメンバーで臨み、戦いそのものも真剣だった。

 そのイタリアに、1-1で引き分けた。大会本番7カ月前にして、トルシエは日本がW杯でも十分に戦えるという手応えを、確かにつかんだのだった。

 ここに至るまでの過程は、決して平たんではなかった。

 2000年10月、レバノンで行なわれたアジアカップで、日本は圧倒的な強さを見せて優勝した。初戦のサウジアラビア戦を4-1、続くウズベキスタン戦を8-1と圧勝。トータル6試合を戦って総得点21。総失点は6。アジアサッカー連盟が「アジアカップ史上最強チームのひとつ(ニュアンスとして「ナンバー1」)」とコメントするほどに、屈強で攻撃的なチームだった。

 だが、その攻撃的なチームは、5カ月後には脆くも崩壊した。スタッド・ド・フランスで行なわれたフランスとの親善試合で、0-5の完敗(2001年3月24日)を喫した。

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