トルシエが幾度となく悔やんだトルコ戦。「指揮官は私ではなく、オシムのほうが適任だったかもしれない」 (4ページ目)
「私自身が彼らにそう話したことをその後、幾度となく悔やんだ。ただ、私にとっては、それがその時に感じた感覚であり、心に浮かんだ気持ちでもあった。同時に、私のマネジメントでもあった。理詰めであるだけが私のマネジメントではない。それは、フィーリングであり、その時の感覚でもある。
だから、トルコ戦に臨むにあたり、彼らにこれが2006年W杯に向けての第一歩だと語った。それが、私が語ることのできるトルコ戦の真実だ。私にとっては、トルコ戦こそが2006年に向けてのスタートだった」
そうであるからこそ、「トルコ戦の指揮官として、自分は適任ではなかったかもしれない」とさえトルシエは言う。
「(あの時は)私ではなくて、イビチャ・オシムのほうが適任者だったかもしれない。チームを導くガイドとしては彼が適任で、私にはラボラトリー(実験室、研究所)の仕事が向いていた。それまでも、私はずっとラボのなかにいた。
それぞれに適材適所があり、私の場合、それはチームの構築だ。車を作るのが私の仕事であり、完成した車を走らせるのには、別のドライバーが必要だ。私はあくまでもテストドライバーであり、車を完成させるまでが私の仕事だ。
すなわち、車を完成させたあとは、私ではなく、オシムのほうがその車を走らせることに適しているのだろうと思う。私は、そんなふうに自分のことを考えている」
チーム作りの段階からトルシエは、このチームがピークを迎えるのは4年後の2006年であると語っていた。そして、大会を終えたあとには、秋田を除くフィールドプレイヤーの全員をW杯のピッチに立たせることができたことに、深い満足を覚えていた。
「チュニジア戦では6分間だけだが、小笠原満男がピッチに立った。この経験が4年後に役に立つ」と、日本を離れる前のインタビューで彼は私に語った。
20年の時を経ても「それが、私のやり方だ」と、トルシエは語っている。
「ワールドユース決勝のスペイン戦(0-4。1999年4月24日/ナイジェリア)もそうだっただろう。(そこまで一度も出場機会のなかった)氏家英行を先発起用したのは、それまでの彼の努力に報いたかったからだ。
そのスペイン戦とトルコ戦は、私のなかでは同じ位置づけだった。スペイン戦も、(それまでに)目標はすでに達成されていた。だから、そのために力を注いだすべての選手に報いたかった。
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