金田喜稔×木村和司対談「トルシエのことは好かんかったけど、言っていることは正しかった」 (2ページ目)

  • 小室功●取材・構成 text by Komuro Isao

――現役時代の金田さんや木村さんにとって、ワールドカップとはどんな位置づけでしたか?

木村「まったくイメージにないよ」

金田「ワシも」

木村「韓国に勝たないと出られないという感じやったからの。ワシらの時は(韓国に)なかなか勝てなかったから」

金田「自分たちにとってワールドカップは別の世界。現実味がなかったよな」

木村「そう、オリンピックには出たいと思っていたけど」

金田「オリンピックがアマチュアの大会で、ワールドカップがプロの大会。そういう感じだったから。でも、1986年のメキシコ大会のアジア予選の時、一番(ワールドカップに)近づいたんじゃない? 韓国戦で、和司が直接FKを決めたりして、もう少しのところまでいった」

木村「まあ、近づいたと言えば、近づいたけどな。でも正直、韓国に勝てるという気がしなかった。韓国と日本の差はまだまだ大きかったよ」

金田「現役時代、韓国とは結構戦ってきたけどな。日韓定期戦とか、ムルデカ大会(マレーシア)とか。でも、日本は相手にされていなかった」

木村「ムルデカ大会と言えば、(日本代表の宿舎だった)ホテルのスタッフから『キンタサン、ヒサシブリ』って言われとったな。どこまで顔馴染みになっとるんよ?(笑)」

金田「ワハハッ。懐かしいの」

――ワールドカップ初出場にあと一歩のところまで迫ったという意味では、1994年アメリカ大会のアジア最終予選も忘れられません。「ドーハの悲劇」として、今でも語り継がれています。

木村「当時はまだ現役だったからな、『ワシを呼べよ』と思った」

金田「ラモス(瑠偉)も、監督の(ハンス・)オフトやコーチの清雲(栄純)さんに言っていたらしいぞ、『和司を呼んだら?』って」

木村「予選最後のイラク戦、すごく出たかったな。日本代表のために力になれたと、今でも思っとるよ」

――日本にとって悲願のワールドカップ初出場は、その次の1998年フランス大会でした。以来、毎回本大会出場を果たし、今年のカタール大会の出場権も獲得しています。今ではすっかりワールドカップ常連国のひとつです。

金田「日本サッカーのレベルが着実に上がってきた証拠でもある」

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