金田喜稔×木村和司対談「トルシエのことは好かんかったけど、言っていることは正しかった」

  • 小室功●取材・構成 text by Komuro Isao

――2002年ワールドカップの日本代表メンバーのうち、いわゆる海外組は4人でしたが、大会を重ねるごとに海外組が増えて、現在はほとんどが海外組。日本サッカーを取り巻く環境の変化に驚くばかりです。

金田「Jリーグが開幕した頃、ワシ、日本サッカー協会の強化部の仕事をしていたけれど、そこで、田嶋幸三(現日本サッカー協会会長)やキュウ坊(加藤久。現京都サンガ強化育成本部長)らと、『近い将来、海外でやっている選手たちが日本に帰国して代表ゲームをするような環境になるかな』なんて話していたよ。

 でも、まだ半信半疑。ところが、今は現実になったからな。それこそ、ヨーロッパにいる日本人選手だけで1チームが作れる。わざわざ長距離移動をしなくても、向こうで、コンディションがいい状態で強化試合ができる。そういうことを含めて、ずいぶん時代は変わったよ」

――日本の選手のなかで、最初にヨーロッパのクラブに移籍したのは奥寺康彦さんですね。

金田「そう、奥寺さんが1.FCケルンに行ったのが初めて。そのあと、尾崎(加寿夫)や(風間)八宏らがドイツのクラブに挑戦したけど、海外への扉を大きく開いたのはやっぱりカズ(三浦知良)じゃないかな。1993年にJリーグが始まって、その話題のなかで、イタリアに行った。

 最初はいろいろと言われていたようだけど、カズの挑戦が日本の選手の海外移籍の環境や意識を変えたと思うよ。だから、ヒデ(中田英寿)や(中村)俊輔も行けただろうし、今につながっているのは間違いない」

木村「日本の代表選手のほとんどが海外でプレーしているけど、成長するために、そういう厳しい環境に身を置くのは正しいよ」

金田「何はともあれ、今回は2002年日韓大会から20年というテーマだけど、ワールドカップに初めて出た1998年のフランス大会があっての2002年だし、1993年のドーハがあって、アメリカ大会に出られなかった経験があっての1998年。日本サッカーのワールカップの歴史を振り返れば、やっぱりそういう話になる。もっと言えば、ワールドカップに出られなかった時代から、すべてがつながっているんよ」

(つづく)

金田喜稔(かねだ・のぶとし)
1958年2月16日生まれ。広島県出身。広島工業高から中央大へ。卒業後、JSL(日本サッカーリーグ)の日産入り。主力選手として活躍し、数々のタイトル獲得に貢献した。日本代表でも屈指のドリブラーとして奮闘。国際Aマッチ58試合出場6得点。1991年に現役を引退。解説者、指導者として奔走する。現日本サッカー協会理事。

木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高から明治大へ。卒業後、横浜マリノスの前身となるJSLの日産入り。チームの司令塔として長年活躍した。日本代表でも「10番」を背負って奮闘。国際Aマッチ54試合出場26得点。1994年シーズンを最後に現役引退。その後、フットサル日本代表、横浜F・マリノスの監督を務めた。

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