平成の「2つのベルギー戦」が物語る
日本サッカーの驚異的な成長 (2ページ目)
無料会員限定記事
敗者にとって、どちらがより誇らしい負け方だったかは言うまでもない。ワールドカップの日本戦のあとで、あんなに虚脱感を覚えた記憶は他にない。
大会直前に起きた監督解任をめぐるドタバタ劇が、玉に瑕ではあるが、純粋にあの試合だけを取り上げれば、平成の最後を締めくくるという意味でも、ハイライトにふさわしい試合であったことは間違いない。
と同時に、個人的には、もうひとつ忘れられない"ベルギー戦"がある。
まさに空前のサッカーブームと言ってもいいほど、日本中で多くの人たちが熱狂の1カ月を過ごした2002年(平成14年)の日韓ワールドカップ。平成の日本サッカーを振り返るうえでは、これもまた欠かすことのできない一大事だった。
そんな平成を代表する大イベントで、最も印象に残っているのが、日本がワールドカップ初勝利を挙げたロシア戦でもなく、ベスト8の夢破れた雨中のトルコ戦でもなく、グループリーグ初戦のベルギー戦なのだ。
なぜ、ベルギー戦が最も印象深いのか。
ひとつには、日本が戦った4試合のうち、唯一サッカー専用競技場(埼玉スタジアム)で行なわれたことがあるだろう。
それまで日本には、6万人収容規模のサッカー専用競技場は存在せず、まずはその雰囲気自体が新鮮だった。試合前にスタンドへと上がり、記者席につき、満員のスタンドを見渡したとき、得も言われぬ興奮が体の内側から湧き上がってきたことを、今でもはっきりと覚えている。
そしてまた、そこで生まれた日本のゴールも記憶に残るものだった。
鈴木隆行のゴールは、決してきれいではなかったが、彼らしい執念のゴールだったし、この大会のラッキーボーイとなる当時22歳、稲本潤一のドリブルシュートも鮮やかだった。
結局、試合は2-2の引き分けで終わり、日本は勝つことができなかったのだが、自国開催のワールドカップ初戦という歴史的価値も含め、平成の日本サッカー史において、非常に重要な試合だったように思う。
アジア一次予選敗退が驚きではなかった弱小国が、"わずか"30年の間に、優勝候補に冷や汗をかかせるまでに成長した。そんな平成のサッカー史において、奇しくも"ふたつのベルギー戦"がマイルストーンとなっている。
そして現在、多少のこじつけを承知で言えば、多くの若い日本人選手がベルギー(少し前なら、海外移籍先としてほとんど選択肢に入らなかった国だろう)でプレーしていることは、不思議な巡り合わせである。
全文記事を読むには
こちらの記事は、無料会員限定記事です。記事全文を読むには、無料会員登録より「集英社ID」にご登録ください。登録は無料です。
無料会員についての詳細はこちら