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【プロ野球】戦力外候補から一転、平野謙を救った近藤貞雄の慧眼 「打たなくてもいい」から始まったアメフト方式の野球とは? (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 野手転向1年目も二軍でのプレーが続き、成績は平凡。それでも、外野守備だけは着実に磨いていた。大学時代から「打つことより守るほうが好きだった」と振り返るように、守備には確かな手応えがあった。そして翌1980年、平野は新たな挑戦としてスイッチヒッターへの転向を決断する。

「当時は、ジャイアンツには松本匡史さん、カープには高橋慶彦さんと、どこの球団にもスイッチヒッターがいました。でも、ドラゴンズにはいなかった。それなら、やってみてもいいのかなと思ったんです。右打ちがダメだから、という軽いきっかけでしたけどね。キャンプが終わる頃、広野さんの前で左打席からバットを振ってみたら、『いけるんじゃないか』と言われた。それで『じゃあ、スイッチの練習をしますよ』ということになりました」

 もちろん、左打席に立つことで俊足をより生かせるという狙いもあった。試合ではまだ右打席だけに立ち、左打ちは練習に専念。それでも二軍公式戦の出場機会は前年より増え、試合数はほぼ倍になった。

【スペシャリストを積極起用】

 しかし打撃面では結果が出ず、一軍昇格も果たせない。平野自身、その時は何もわからず過ごしていたわけだが、球団から戦力外を通告される前に新監督の近藤に救われたのだった。

「救われたのは僕だけじゃないんです。これもあとで聞いた話なんですが、近藤さんは内野手の柳沢高雄も残しています。柳沢も守備はうまいけど、僕と同じで打てなかった。それでも翌年には守備固めとして一軍で活躍しました。試合でリードすると、攻撃陣と守備陣を入れ替えていました。近藤さんは先発、中継ぎ、抑えという分業制も確立しましたけど、そのおかげで現役を続けられた投手はいますしね」

 柳沢は上宮高(大阪)から1976年オフにドラフト外で入団。平野と同じように4年間を二軍で過ごし、戦力外候補に挙がっていた。そんな選手にも一軍で生きる道を見いだそうとした近藤の根底には、ドラフト制度がある限り、攻守走三拍子揃った選手だけで先発メンバーを組むのは不可能という考え方があった。それと同時に、中日監督就任時、整理選手の名簿を見た理由をこう語っている。

「どんな選手でも、ひとつはピカリと光る長所を持っている。スペシャリストとしての部分をね。その部分を持っているからこそプロになれたのだ」

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