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【プロ野球】戦力外候補から一転、平野謙を救った近藤貞雄の慧眼 「打たなくてもいい」から始まったアメフト方式の野球とは? (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 二軍でスタートした1年目(1978年)の後半には公式戦で2勝を挙げ、終盤には一軍昇格の話も持ち上がった。だが、「81番が一軍で投げるのはおかしい」という不可解な理由で見送られた。

「今で言えば育成選手みたいなものですよね。制度は違いますけど、自分の立場はそれくらいの位置づけだったんじゃないかと思います。当時は支配下登録が60人までだったと、あとで知ったんですけど、『81番』という背番号は、つまり支配下選手じゃないという扱いだったのかな、と」

【投手の未練を引きずったまま野手転向】

 それでも、中日新聞には<来季の有望株>として名前が掲載され、翌1979年には背番号が57へ変更された。球団の期待の証だったが、2月のキャンプ中、大学時代に故障した右ヒジの状態が悪化。トレーナーから首脳陣にヒジの状態について報告されたあと、二軍打撃コーチの広野功に「外野をやれ」と言われた。

 広野は1966年から中日、西鉄(現・西武)、巨人でプレーした左の強打者。現役引退後の1975年に中日スポーツの記者となり、翌76年にはアマチュア野球を担当。その際、大学3年だった平野を見ていた。

 その広野は1978年、中日のコーチとして復帰。こうした縁もあり、野手へ転向した平野をマンツーマンで指導することになった。

「広野さんは、僕が大学生の頃から『平野は野手のほうがいい』と思ってくれていたらしいんです。そんなコーチにいろいろ教えてもらって、『一生懸命練習しました』と言いたいところなんですが、そこまで必死に打ち込んだ記憶がなくて......。言い方は悪いですけど、やらないと一日のメニューが終わらないから、ただやっていただけ。練習が終われば、すぐ遊びに行っていました(笑)」

 野手へ転向したとはいえ、投手失格を告げられたショックは大きく、未練も残っていた。そのため、自主的にバットを振ることはほとんどなく、半ばやけになって遊びながら過ごしていたという。

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