【プロ野球】宮城大弥は幼少期、ツギハギのユニフォームや穴が空いたスパイクでプレー 父が明かす壮絶な極貧生活
父が語る宮城大弥 前編
オリックスの宮城大弥は連覇を目指すWBCの日本代表メンバーに選出され、本番に向けて調整を続けている。今では国を背負う左腕も、幼少期からプロ入りまでは野球用具をそろえるのも苦労するほどの生活を送っていたという。当時の状況について、宮城の父・宮城享(みやぎ・とおる)氏が振り返った。
2019年のドラフト1位でオリックスに入団した宮城 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る
【スポーツマンだった享氏が中学時代に負った大ケガ】
2001年に沖縄県宜野湾市で生まれた宮城は、幼少期、エアコンがない6畳一間のアパートで、食生活もままならないほどの生活を送っていた。その一因に関して享氏は、自らが抱える左手の障がいを挙げた。
享氏は学生時代、野球や陸上に取り組み、110mハードルの沖縄県記録(当時)を持つほどのスポーツマンだった。しかし、野球の実力が認められ、九州の高校への進学が決まった中学3年時に交通事故に巻き込まれて左手を負傷。「左手を思うように動かせなくなり、スポーツをするどころではなくなった」と振り返るほどの大ケガで、大幅な進路変更を余儀なくされた。
県内の高校に入学した享氏は、「アメリカで映画関係の仕事に就きたい」という夢を抱き、高校卒業後に20歳で渡米。左手のハンデを背負いながらも、メイクの仕事をこなし、充実した日々を過ごしたが......父の死に伴って沖縄に帰郷。異国での生活は7年ほどで幕を下ろした。
享氏は再就職に向けてスタートを切ったが、エンタメ関連の仕事は少なかったのに加え、左手が使えないことへの風当たりや偏見に苦しんだという。
「未経験からのスタートで、ましてや"障がい者枠"ということもあり、定職を手にするまでにすさまじく高いハードルがありました。なんとか職に就くことができても、職場の同僚に左手のケガを揶揄されたり、日常の何気ない場面で強い偏見を感じたりすることも、当時は珍しくありませんでしたね」
得意な英語を生かしたレンタカー業の窓口や運転手、時には農作物の刈り取り作業など、自分にできる仕事は何でもやった。多い時には3つの職種を掛け持ちしていたそうだが、当時は障がい者の雇用が進んでおらず、そのことを理由に賃金が抑えられたこともあって、満足な収入や安定した生活を得るには至らなかった。
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