【プロ野球】宮城大弥は幼少期、ツギハギのユニフォームや穴が空いたスパイクでプレー 父が明かす壮絶な極貧生活 (2ページ目)
【自分は"ハズレガチャの親"】
宮城が幼い頃には、享氏が職を追われ、ミルク代をねん出するのも困難だったことがあるという。情けなさを感じながら実家に相談したが、「ミルク代すら稼げないのに、なんでお前は子供を作ったんだ」と門前払い。帰宅後、空腹で涙が枯れるまで号泣し、疲れ果てて眠る子どもたちの姿を見て、享氏は「二度とひもじい思いはさせまい」と心に誓ったという。
そのような逆境のなかでも、長男の大弥や、現在女優として活躍を続ける弥生さんなどを授かった。
「『逃げ出したい』と思うような瞬間をたくさん味わいましたが、楽しく充実した毎日を過ごせていたんじゃないかと思います」
そう語る享氏だが、子供目線から「親ガチャ」という言葉を口にした。
「数年前に『親ガチャ』という言葉を聞いた時に、『面白い表現だな』と思って、僕も使ってみることにしたんです。家族にたくさんの苦労をかけさせてしまった僕は、言うまでもなく"ハズレガチャの親"だと自覚していますが、それなのに"大当たり"の妻と子供たちに出会うことができた。僕が同じ立場だったら、きっと家出していたんじゃないかな」
自虐を交えながら、享氏は「安定した収入を得られるまでに10年くらいかかった」と振り返った。
そんななかで宮城は、早くから野球に興味を持ち、4歳の時に少年野球チームに入団した。享氏と誓った3つの約束、「挨拶をする」「嘘をつかない」「一度やると決めたら投げ出さない」を胸に秘めて野球に向き合い、実力を伸ばしていった。
宮城が小学1年の時には、遠心力を生かした負担の少ない身体の使い方を理解してもらおうと、ドライブに連れ出したこともあるという。
「息子を乗せて大きなカーブを走り、ブレーキをかけた時と、そうでない時に受ける負荷の違いを伝えようとしたんです」
そういった独自のものも含め、享氏の熱のこもった指導もあって、宮城は現在に通じるピッチングフォームの基礎を作り上げていった。
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