【長嶋茂雄が見たかった。】日本シリーズで巨人に負け続けた阪急の選手たちの記憶「試合前の練習の時点で圧倒されていた」 (3ページ目)
【フライが上がっただけで観客が沸く】
阪急の切り込み隊長として活躍した「世界の盗塁王」福本豊さん
1968(昭和43)年のドラフト会議で阪急から7位指名を受けた福本が、日本シリーズを初めて経験したのは1969(昭和44)年だ。
「プロ1年目の僕はまだレギュラーポジションを取れていなかった。試合前の練習で見た長嶋さんのバッティングがすごかったのをよく覚えてるね。打球は強烈だし、右に左にホームランを打ち分けるし、『すごいな......』とうならされるばかりで。長嶋さん以外の選手も身のこなし方が全然違って、『やっぱり巨人はちゃうな』とみんな感じ取ったと思う」
日本シリーズで苦杯をなめた阪急は、打倒・巨人を目標にして、巨人に勝つための練習を翌春のキャンプから始めた。その年、福本は75盗塁を記録して盗塁王を獲得。パ・リーグ連覇を果たすチームの切り込み隊長として活躍した。プロ4年目の1972(昭和47)年には日本記録となる106盗塁を記録した。
しかし、阪急は1971(昭和46)年も1972(昭和47)年も1勝4敗で巨人に敗れた。
「フライが上がっただけでお客さんが『わあ~』と沸く。そんな雰囲気のなかで、阪急の選手は普通のことが普通にできなかった。3点くらいリードしていても、ランナーがひとり出るだけで追い込まれたような気持ちになる」
福本はセンターを守りながら、ONのバッティングをこう見ていた。
「試合前のフリーバッティングが強烈すぎて、『あんなふうに全部打たれてしまうんやないか』と思ったよね。どうしても、悪いイメージが抜けない。ボールを芯でとらえる確率が高くて、打球がファウルになることが少ない。今思い返しても、あのバッティングはヤバかった」
セ・パの交流戦がない時代、巨人打線の爆発を身近で感じることは少なかったが、実際に対戦すると怖さを拭い去ることができなかった。
「テレビのニュースをつけたら、長嶋さんや王さんが打つ場面ばかり見せられる。知らんうちに、そういうものも頭にすり込まれてたのかもしれんね」
1974(昭和49)年、巨人のV9時代が終わり、長嶋が現役を引退した。その翌年にパ・リーグを制した阪急は日本シリーズで広島カープを下し、日本一になった。
「せっかくリーグ優勝したのに、日本シリーズの相手が広島で、みんながっくりしてたね。『巨人とちゃうんかい』と。僕たちはずっと『打倒・巨人』でやってきたから。広島との試合ではまったくプレッシャーを感じることがなかった。『そりゃ、勝てるやろ』という感じで」
1976(昭和51)年の日本シリーズ、阪急は長嶋監督が指揮する巨人と戦い、日本一に。翌年も巨人を撃破した。
「その時の巨人には(選手の)長嶋さんがいなかった。ミスターがいたら、勝てたかどうかわからん。王さん、長嶋さんが並ぶ打線は本当に手強かった。あのふたりにやられ続けたから。
日本一になってみて、やっぱりあの頃の巨人は違ったんやなと思った。セ・リーグの王者だから強かったんじゃなくて、V9時代の巨人が強かったということ。今でも、長嶋さんのいる巨人に勝ちたかったなと思うよ」
著者プロフィール
元永知宏 (もとなが・ともひろ)
1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長
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