【長嶋茂雄が見たかった。】日本シリーズで巨人に負け続けた阪急の選手たちの記憶「試合前の練習の時点で圧倒されていた」
今年6月に逝去した長嶋茂雄氏。お別れの会が開催された先月11月21日に『週プレNEWS』にて昨年8月より配信した連載「長嶋茂雄は何がすごかったのか?」をまとめた書籍『長嶋茂雄が見たかった。』が刊行された。
生で長嶋氏のプレーを見ることがかなわなかった、立教大学野球部出身の著者・元永知宏氏が、長嶋氏とプレーした15人の往年の名選手たちに「長嶋茂雄は何がすごかったのか」を取材してまとめたのがこちらの一冊。本著より長嶋氏の印象的なエピソードを時代に沿って抜粋し、5日間にわたって掲載する第4回。
長嶋(写真)、王を擁する巨人に、阪急は日本シリーズで5度敗れた photo by Kyodo News
【とにかくONの壁が高かった】
読売ジャイアンツのV9(リーグ9連覇・9年連続日本一)が始まったのは1965(昭和40)年のことだ。当時、長嶋茂雄は29歳、王貞治は開幕後の5月に25歳の誕生日を迎えている。その後、柴田勲、土井正三、黒江透修、高田繁らが脇役としてONを支える布陣が完成していく。
巨人のV9時代、パ・リーグ王者は巨人の壁に挑み、跳ね返され続けた。
1944(昭和19)年2月生まれの長池徳士は長嶋と8歳違い。東京六大学出身の右の強打者という共通点はあったが、実績では足元にも及ばなかった。
「当時の神宮球場はとても広くて、なかなかホームランが出なかった。それなのに、長嶋さんは立教で8本もホームランを打った。これはすごい記録だなと思いました。僕は(法政)大学時代の4年間で3本しか打てませんでしたから」
長池は1965(昭和40)年の第1回ドラフト会議で、阪急から1位指名を受けた。主砲になることを期待された長池には背番号3が与えられた。
「僕にとって、巨人の四番を打つ長嶋さんは憧れの存在でした。(阪急に)入団する時に『背番号3で』と言われ、うれしかった半面、『もし活躍できなかったら......』という想いはありました。長嶋さんの『3』は、やっぱり特別なんですよ」
1967(昭和42)年、阪急は首位を快走し、球団創設初となるリーグ優勝を成し遂げた。四番を任された長池は打率.281、27本塁打、78打点という成績を残し、ベストナインに選ばれた。
そして、日本シリーズで対戦したのが巨人だった。その年の巨人は2位の中日ドラゴンズに12ゲーム差をつけ、悠々と3連覇を成し遂げていた。
「(日本シリーズの)第1戦が行なわれた西宮球場の正面につけられたバスから、巨人の選手たちが降りてくるんです。僕たち阪急の選手たちも見に行きましたよ。先頭が川上哲治監督、続いて牧野茂ヘッドコーチ、そのあとが長嶋さん。まるで映画で見るような登場シーンでした。本当にカッコよかった!」
戦う前に勝負はついていたのかもしれない。
「試合前のフリーバッティングでは、長嶋さんが最初に打ちます。全部スタンドに入るので、球場中のボールがなくなってしまうんじゃないかと思ったくらい。守備や走塁、ひとつひとつの動作がきれいで『ほ~』と見惚れるほど。もう、練習の時点で圧倒されてしまっていましたね」
阪急は2勝4敗で敗れ、巨人が3年連続の日本一を果たした。
「僕たちはリーグ優勝しただけで大喜びしている。日本シリーズはおまけみたいなもの。一方、あの当時の巨人というチームは本当に強かった。とにかくONの壁が高かったですね。彼らには日本シリーズに勝つという使命があって、ビッグゲームに対する執着心が違っていました」
日本シリーズで巨人に敗れた阪急は、その後、パ・リーグで盤石の強さを見せることになる。1968(昭和43)年、1969(昭和44)年も続けて制し、3連覇。両年とも長池が日本シリーズで敢闘賞を獲得する活躍を見せたものの、いずれも巨人に2勝4敗で敗れた。
「2年目、3年目は相当な意気込みで臨みましたけど、弾き飛ばされました。若手が実績を積み、巨人に気後れするようなことはなくなっていましたが、2勝はできても3つは勝てない」
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著者プロフィール
元永知宏 (もとなが・ともひろ)
1968年、愛媛県生まれ。 立教大学野球部4年時に、23年ぶりの東京六大学リーグ優勝を経験。 大学卒業後、ぴあ、KADOKAWAなど出版社勤務を経て、フリーランスに。著書に『荒木大輔のいた1980年の甲子園』(集英社)、『補欠の力 広陵OBはなぜ卒業後に成長するのか?』(ぴあ)、『近鉄魂とはなんだったのか? 最後の選手会長・礒部公一と探る』(集英社)など多数。2018年から愛媛新聞社が発行する愛媛のスポーツマガジン『E-dge』(エッジ)の創刊編集長

