【長嶋茂雄が見たかった。】日本シリーズで巨人に負け続けた阪急の選手たちの記憶「試合前の練習の時点で圧倒されていた」 (2ページ目)
【ぶつかっても、ぶつかっても、跳ね返された】
長嶋と同じ背番号3をつけ、阪急の四番を務めた長池徳士さん
1970(昭和45)年はリーグ4位に終わった阪急だが、翌1971(昭和46)年は覇権を取り戻した。
「1968(昭和43)年のドラフトで指名された山田久志(1位)、加藤秀司(2位)、福本豊(7位)が主力になり、それまでのチームとは大きく変わりました」
山田が22勝を挙げ、防御率2.37で最優秀防御率、福本が67盗塁で2年連続の盗塁王を獲得。三番を任された加藤が打率.321(リーグ2位)をマークした。長池はこう振り返る。
「『今年は勝てる』と思って日本シリーズに臨みましたが、巨人に跳ね返されました。日本シリーズの雰囲気に慣れ、チーム力にも自信はついて、という状態でも、巨人の壁は高かった」
それはなぜか――巨人の持つ底力を阪急の選手たちは恐れていたからだ。
「80%、90%は勝ちだという試合でも、最後の最後でパッとひっくり返される。プラスアルファの精神的な強さが、阪急よりも巨人の各選手のほうが上だったんじゃないでしょうか」
その1971(昭和46)年の日本シリーズ第3戦(後楽園球場)は伝説として語り継がれている。
先発した山田は9回裏ツーアウトまで巨人打線を2安打に抑えていた。1対0でリードしていた阪急が勝てば2勝1敗となり、有利にシリーズを戦える。ところが山田が投げ込んだ3球目を王が強振すると、打球はライトスタンドに飛び込んだ。劇的なサヨナラホームランになった。
結局、阪急は1勝4敗で敗れ去った。
「一球の怖さを思い知らされましたし、巨人の強さを感じました。当時は『ONとは給料が違うから』で済ませていましたが、やっぱり実力差があったということでしょうね」
阪急は翌1972(昭和47)年の日本シリーズでも巨人に挑んだものの、1勝4敗で敗れた。
「結局、5回挑戦して、全部勝てませんでした。9連覇のうち、5回も協力してしまったことになりますね」
彼らが巨人にリベンジを果たしたのは、長嶋が引退したあとだった。
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