【プロ野球】神宮のマウンドで聞いた体の切れる音 ヤクルトを支えた「火消し役」近藤弘樹が振り返る地獄の日々 (3ページ目)
当時を振り返り、近藤は「投げていて、正直、手応えはありました」と語る。
「ある程度のところに投げれば打たれないというマインドでした。もともと引いたら負けだという思いはあったのですが、抑えていくことでさらに自信がついていったというか」
22試合の登板のなかでは、3連投することも二度あった。
「戦力外から拾っていただいているんで、痛いとか言っていられないというか、多少は無理をしていたのかもしれません。でも、一軍であんなに続けて登板したことはなかったので、充実していましたね」
【保存療法を選択するも...】
そうしたなかでの、冒頭にあった5月26日の試合での大ケガ。8カ月から1年くらいをメドとして保存療法を選択した。
「手術はしたくなかった。肩は手術したら難しいと聞いていましたし、そこから逃げていたんです。その期間中、キャッチボールはしていましたけど、かなり痛かったです。ちょっと力を入れたら体中に電気が走る感じで。キャッチボールはしたくないし、本当に嫌でボールも握りたくないなって。投げる動作をすれば痛いのはわかっているけど、でも投げないと前に進まないし......毎日が地獄でしたね」
池山隆寛二軍監督(当時)は、近藤の戸田でのリバビリを見守ったひとりだ。
「楽天にドラ1で入って、なかなか芽が出なかったんだけど......。ヤクルトに来て、えぐるシュートを持ち味に芽が出かかった矢先のことだったのでね。あの容姿を見ているだけで、もう一度復活という思いが伝わってくるから。もう一度と願ったんだけど......。でも、この間あいさつに来てくれましたね。元気そうだったのでよかったなと」
保存療法を選択してから8カ月目、近藤はキャッチボールをするなかで「もう埒(らち)が明かない」と悟ったという。
「自分では6割くらい力で投げてるつもりでも、周りの方からは4割くらいにしか見えない。もう靭帯が切れているので、保存療法では無理だったんだと思います。いま思えば、あの8カ月は無駄だったんですけど、こればかりは仕方ないですね。
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