【MLB日本人選手列伝】髙津臣吾: "超遅"シンカーを武器にクローザーの地位を確立 ホワイトソックス時代の経験は指導者としての糧に
メジャー1年目にホワイトソックスのクローザーとして投げきった髙津臣吾 photo by Getty Images
MLBのサムライたち〜大谷翔平につながる道
連載13:髙津臣吾
届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。
MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。第13回は、2シーズンのクローザー生活を通して、その後の指導者生活に役立つ多くのことを学んだ髙津臣吾を紹介する。
【2004年は忘れられない1年です】
アメリカで初めて髙津臣吾の投球を見たのは、2004年6月6日のシアトルでのマリナーズ戦だった。
8回に4対2とリードした場面から登板した髙津は、わずか7球で三者凡退に抑える。
なかには100キロに届かない超スローボールも含まれており、その時のシアトルのファンの「おーっ」というどよめきが忘れられない。遅すぎるうえに、打者が空振りしたからだ。
しかしその後、9回裏に抑えのビリー・コッチがサヨナラ勝ちを許してしまう。
そうした状況も手伝って、6月12日のアトランタ・ブレーブス戦から髙津はクローザーとして起用され、初セーブをマークした。
髙津のシンカーは、魔法そのものだった。
1968年、広島県生まれ。野茂英雄らと同学年になる。1991年、亜細亜大学を経てヤクルトへ入団。野村克也監督から下手投げ投手としてシンカーを究めることを提案され、習得に成功しクローザーへ。そして2004年、夢だったメジャーリーグへの挑戦がかなった。
髙津は"超遅"シンカーを投げるコツを教えてくれた。
「シンカーを投げるのは、ものすごく疲れます。遅い球を投げているので、しんどいことはないと思われがちなんですが、速球を投げる体の使い方、腕の振り方をしたうえで、シンカーを投げる。そりゃ、腕の振りを遅くして遅い球を投げていたら楽だけど、打たれちゃうよ(笑)。だから、すごく体力を使う」
2004年4月9日、髙津がアメリカで最初のマウンドに立ったのはヤンキー・スタジアムだった。しかも相手は松井秀喜だった。
「メジャーで最初に対戦するバッターが松井とは、ちょっとびっくりしましたね。そのあと、ババ・クロスビーにホームランを打たれて、ご心配をおかけしましたけど」
しかし、そこからベテランらしい投球術を見せ、4月23日から6月29日まで、2カ月以上自責点はなかった。クローザー昇格も当然で、髙津がマウンドに上がると、"Shingo Time"とホワイトソックスのファンは喜んだ。
「1年目はいろいろな球場に行くのがすごく楽しかった。本当に、野球を始めたころに戻ったみたいで。2004年は忘れられない1年です」
シーズン最後までクローザーの地位を守り、6勝4敗、防御率は2.31、19セーブを挙げた。
翌年は開幕をクローザーで迎えたが、被弾するケースが目立ち、その座を譲ることになり、8月1日にはホワイトソックスからリリースされた。その後、ポストシーズン進出を目論んでいたニューヨーク・メッツと契約を交わし、9月からは9試合に登板し、チームに貢献した。この苦しいシーズンを髙津はこう振り返る。
「思ったようにいかなかったですね。相手も自分のことを研究してきているのがわかりました。基本はストレートを待っていて、そこでシンカーが来たとしても、待てるようになっていました。そこを狙ってきているのはわかっていたんですが、うまく対処できなくて」
その後、髙津は古巣のヤクルトに戻るが、2008年はシカゴ・カブスのスプリングトレーニングに参加、2009年はサンフランシコ・ジャイアンツ傘下のフレズノでもプレーし、アメリカでの挑戦が続いた。
著者プロフィール
生島 淳 (いくしま・じゅん)
スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo

