江川卓から代打安打で1万円ゲット 豊田誠佑は「今日があるのは江川さんのおかげ」と怪物に感謝した (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

「カーブなんか狙って打席に立ってない。江川さんの時は変化球など狙わずに、常に真っすぐですよ。真っすぐを弾き返せなかったら、変化球も打てないという考えでした。江川さんのカーブって、カウントを取ってくるものと空振りを狙いにくる二種類あるんです。あの時はカウントを取りにきた緩いカーブでした」

 最終回で4点差、投手は江川。誰もここから逆転なんて考えていない場面で代打に出された豊田は、 "江川キラー"の名に恥じないように積極的なバッティングだけを心がけていた。そのおかげで甘く入ったカーブにうまく反応し、ジャストミートできた。

「いいかげんなものだよね。こっちは普通に1万円の賞金ほしさに必死に打ちにいっただけなのに......。それがどんどんつながって同点に追いつき、延長でサヨナラ勝ち。そしたら優勝ですよ。面白いよね。だから、人生はひとりじゃ生きていけないってことなんだよね。みんなによくしていただいて、今日があるってこと。なにかっていうと"江川キラー"の名が出てくるから、本当にありがたい。"江川キラー"の冠がなかったら、オレなんて何もないから。『江川さん、ほんとにありがとうございます』ですよ」

"江川キラー"のおかげで36年間中日に在籍することができ、さらに5年前に名古屋市内で居酒屋『おちょうしもん』を開業し、地元の人々に愛され繁盛している。

 豊田の野球人生は、"江川キラー"一色かもしれない。それでも細く長く野球の現場に携われたことに心から感謝している。これが豊田誠佑の生き方だ。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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