阿波野秀幸が振り返る感動のリーグ制覇からの悪夢の日本シリーズ 「3連勝したことで少し油断したのかも...」 (3ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── 当時のパ・リーグは、5球団が団結して西武を倒そうと「包囲網」が敷かれていたと聞きます。

阿波野 西武は森祗晶監督就任時の86年から94年まで、近鉄が優勝した89年を除き、9年間で8度優勝しています。巨人のV9に匹敵する難攻不落のチームでした。僕が入団してからも「西武を倒さずして優勝なし」という考えが浸透していました。僕や同じ左腕の小野和義、シュート投手の山崎慎太郎が、ローテーションを崩してまで西武戦に登板していました。

【日本シリーズで悪夢の4連敗】

── 1989年の巨人との日本シリーズは、19勝の阿波野さんと20勝の斎藤雅樹さんの同じ年の最多勝投手の投げ合いで、見応えがありました。

阿波野 第1戦は僕が勝ち、第5戦は斎藤が勝ちました。同期には荒木大輔や畠山準といった甲子園で活躍した選手もいますが、僕は市立桜丘高校(神奈川)、斎藤は市立川口高校(埼玉)と、同じ市立高校出身で甲子園未出場。最高の舞台で「斎藤、第1戦に投げて来いよ!」とワクワクした気持ちで迎えたのを覚えています。

── 第3戦の試合後、加藤哲郎さんの「巨人はロッテより弱い」発言がありました。

阿波野 テツ(加藤哲郎)は決して相手を見下した言い方をしたわけではなかったのですが、ペナントレースでは三つ巴の厳しい戦いをしてきたのはたしかで、マスコミにそのような表現をされてしまいました。ただ、ああいうところで謙虚なコメントを言うような男ではないので、気分が高揚していたのでしょう(笑)。僕たちはもうバスに乗っていて、ヒーローインタビューを聞きながら「早くやめて、もうこっちに来い。ホテルに帰るぞ」と思っていました。

── 結局、巨人との日本シリーズは3連勝からの4連敗で、日本一を逃しました。

阿波野 短期決戦は「流れ」ですね。近鉄は日本一未経験の選手ばかりで、昭和生まれの選手にとって、巨人は文字どおり大きな存在でしたね。最初「オレたちは巨人に通用するのかな?」という手探りのところから始まって、1勝1敗や2勝2敗みたいに拮抗した状態だったらまだしも、いきなり3連勝でしたからね。しかも本拠地で2連勝して、敵地・東京ドームで3勝目です。少し油断したのかもしれないですね。3勝2敗になっても「藤井寺球場に戻れば勝てる」という、根拠のない開き直りがあったのですが、本拠地での第6戦に負けて逆王手をかけられた時は、勢いは完全に巨人でした。

後編につづく>>


阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)/1964年7月28日、神奈川県出身。桜丘高から亜細亜大学を経て、86年のドラフトで近鉄、巨人、大洋による競合の末、近鉄が交渉権を獲得し入団。入団1年目に、最多奪三振王(201個)、新人王のタイトルを獲得。88年、伝説となる「10.19」のダブルヘッダーに連投し悲劇を経験。89年、最多奪三振(183個)と最多勝利(19勝)のタイトルを獲得し、悲願のリーグ優勝を果たす。その後、95年に巨人、98年に横浜(現・DeNA)に移籍。98年は50試合に登板するなど日本一に貢献。2000年に現役を引退。現役引退後は巨人、横浜、中日のコーチを歴任。現在は解説者として活躍の傍ら、ジャイアンツアカデミーのコーチも務めている

3 / 3

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る