江川卓に勝った男は甲子園優勝からドラ1でプロ入りも、ヒジを見たコーチは「アカン」と絶句した (3ページ目)
銚子商の甲子園出場が断たれた1年夏、事件が起きた。2年生が練習をボイコットしたのだ。当時の監督の采配では勝てないと考え「(監督に)復帰してください」と、部長をしていた斉藤一之に直談判したのだ。
高校野球は学校のクラブ活動の一環である。選手同士が結託し、監督を更迭するためボイコットするなど御法度である。だが監督が斉藤に代わった途端、事態は一変する。銚子商の歴史も変わり、土屋の運命もガラッと変わるのだ。
【衝撃の江川との初対戦】
練習試合にいきなり登板させ、好投した土屋に背番号11を渡し、秋の地区予選メンバーとしてベンチ入りさせたのだ。1学年上の飯田三夫と土屋の二本柱で次々と勝利し、秋の関東大会準決勝で作新学院の江川と初対決するのである。
会場は銚子市野球場。地元での試合とあって、銚子商ナインは燃えていた。その時、土屋はヒジを痛めて東京の病院に通っており、準決勝の試合開始には間に合わなかった。
試合開始後に戻ってくると、「黒潮打線」と謳われた強打の銚子商打線が三振の山を築いている。
「なんだ?」
土屋の目に映ったのは、威風堂々とした耳の大きい大男がマウンドで仁王立ちしている姿だった。ダイナミックなフォームに目を奪われた土屋は、「ケツのデカさといい、すげぇ下半身だ」と、まず体つきに驚かされた。土屋は、ピッチャーとして自分にないものをすべて持っている江川に、畏怖の念を抱いた。
この試合、土屋は9回に登板し、裏の攻撃では打席にも立った。
「高校生でこんなピッチャーいるのかよ、と本当に思いました。バットを振ったら、30センチくらいボールと離れていましたね。すごかったですよ、ホントに。もうマンガの世界。カーブだって、顔に向かってくると思って避けたら、アウトコースに決まる。投球フォームも軽く投げているように見えるんだよね」
初めて対戦した江川に、ただただ驚倒した。
球場に観戦に来ていた野球にうるさい銚子市民でさえ、江川の快刀乱麻のピッチングに圧倒され、バットに当たっただけで「おおぉ〜」とどよめきが起こるほどだった。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
著者プロフィール
松永多佳倫 (まつなが・たかりん)
1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。
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