カルロス・ポンセが「間違いなくメジャーで通用した」と語る3人の日本人「江川卓よりもすごかった」 (3ページ目)

  • 阿佐智●文 text by Asa Satoshi

 しかし、ポンセはこの考えには同調しない。

「今年のWBCを見たかい? 日本はメジャーリーガーを揃えたアメリカを破って優勝したじゃないか。ジャパンチームもメジャーリーガーがいたけど、NPBの選手だけでも十分勝てたと思うよ。アメリカの野球だって、あの頃よりは発展している。日本のプロ野球だって、僕らがプレーしていた頃よりレベルアップしていると思うよ」

 日本プロ野球史に名を残す活躍をしたポンセだったが、長くは続かなかった。

 来日4年目の89年はキャリアハイとなるシーズン562打席に立ったが、打率は来日以来最低となる.264、ホームランも24本に終わり、チームも最下位に沈んだ。当時はチーム不振の責任を外国人選手になすりつけるのが常だった。翌年、「衰え」のレッテルを貼られたポンセに与えられたポジションは「第3の外国人」だった。

 90年、大洋は前年ブルワーズで7本塁打を放ったジョーイ・マイヤーを獲得。そして88年に来日し、2年連続で3割をマークしていたジム・パチョレックのふたりで一軍の外国人枠(当時)は埋まり、ポンセはシーズンの大半をファームで過ごすことになった。

「彼らとはブルワーズで一緒だったよ。ふたりともいいヤツだったけど、彼らのために押し出された形になったのは複雑な気持ちだったね」

 結局この年、ポンセは一軍で15試合だけの出場に終わり、日本を去ることになった。

 翌年、モントリオール・エクスポズのスプリングトレーニングに参加したが、2週間でリリース。まだ32歳だったが、妻と相談のうえ、次の人生を歩むことになった。

「現役を引退したあとは、マイナーでコーチをしていたよ」

 コーチ業を5年ほどしたあと、ポンセはフィールドを離れた。

 ドライバーとして残りの職業人生を送っていたポンセを再び野球界に引き戻したのはSNSだった。ドライバー生活と並行して行なっていたジュニア世代へのバッティング指導の延長として、2019年にYouTubeチャンネルを開設したのだが、これを見た台湾プロ野球チームの味全ドラゴンズの関係者からFacebookのメッセンジャー機能を通じて連絡が入ったのだ。

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