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部内不祥事で出場辞退、150キロ到達、甲子園不出場...オリックス2位指名・河内康介が語った波乱の高校時代 (3ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

高校3年夏に150キロをマークした河内康介 photo by Kikuchi Takahiro高校3年夏に150キロをマークした河内康介 photo by Kikuchi Takahiroこの記事に関連する写真を見る── 今春まで最速141キロだったのが、今夏に最速150キロをマークしています。それだけ一気に上がると、体に負荷がかかりませんか?

河内 太もも、ふくらはぎ、お尻は常に筋肉痛がすごくて、ヒザを上げるのもしんどいくらい。でも、足は重いのに、左足一本で立っている感覚は今までになくいいんです。徳島商との練習試合も足がパンパンでした(笑)。

── 河内投手の評価が急上昇するきっかけになった、5月の練習試合ですね。森煌誠投手との投げ合いで、互角に渡り合ったことでスカウト陣の評価を高めました。

河内 あの時は「足がパツパツすぎて動けんわ」と思いながら投げていました。ウエイトトレーニングのつらさは忘れないです。

── 今まで肩・ヒジを故障したことはないのですか?

河内 小学生の頃に肩をケガしたんですけど、それ以来は一切していません。中学では連盟無所属のニュー・ヤンキースに入りました。公式戦がないので酷使されることもなく、選手の体を第一に考えてくれる環境だったのがよかったと思います。

── 中学より先を見据えていたんですね。

河内 小学生の頃はコントロールに自信があったので、指導者の方から「中学でバンバン投げさせられて、またケガをする可能性もある」とニュー・ヤンキースを勧めてもらいました。中学ではたまに練習試合で投げる程度でした。

── 高校は大阪から愛媛に越境入学し、聖カタリナ学園へ。入学直前の春のセンバツに出場する強豪でしたが、部内暴力の不祥事の影響で2年夏、秋の公式戦に出られない逆風がありました。不祥事にかかわった部員は転校したそうですが、慕っていた前監督も退任して苦しい時期だったと思います。

河内 残ったメンバーが転校せぇへんかな? と心配だったんですけど、みんなカタリナで続けてくれてよかったです。当時は周りからの目も厳しくて、普段使いしていたカタリナのパーカーも着られなくなって、ジムや整体には私服で行くようになりました。カタリナってことがバレないように暮らしていましたね。

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