岡田彰布の代打交代に真弓明信は「事情を説明しにいかなあかんよ」とコーチに詰め寄った (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 投手陣の踏ん張りで貧打をカバーしていた阪神だったが、7月に入り、田村が左ヒジの故障で離脱する。5勝1敗14セーブ、41回を投げて防御率1.10という守護神を欠くことになったのだ。

「点がとれなくて、何とかピッチャーで持っていたなかで、田村の故障がいちばん痛かった。だから僕、全然関係ないんやけど、ピッチングコーチの大石(清)さんにわざわざ言うたことあります。遠征先の宿舎で大石さんに『酒飲もうか』って言われて、部屋で飲んでる時。『これ、最後の抑えはね、もう野田(浩司)しかいないですよ』って」

 野田は右ヒジ痛の影響で開幕時から不調。5月半ばから二軍暮らしだったが、チームが6月末から7月にかけて連敗する最中に昇格して復活。7月8日の大洋戦で完封して連敗を7で止めるとチームは息を吹き返し、前半戦を2位で折り返すきっかけをつくった。その後も野田は先発するたびに快投。4連勝で7月の月間MVPを受賞したが、真弓の考えは抑えでの起用だった。

「誰が見ても野田は真っすぐが速いし、フォークがあって三振がとれる。だから抑えとして一番いいんちゃうかと思って大石さんに言わせてもらいました。けど、『うーん、考えておくわ』で話は終わりましたね」

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(=敬称略)

真弓明信(まゆみ・あきのぶ)/1953年7月12日、福岡県出身。柳川商から社会人野球の電電九州に進み、72年のドラフトで西鉄ライオンズに3位指名され入団。 78年に遊撃手のレギュラーとなり、オールスターに初選出され、ベストナインにも選ばれた。その年のオフのトレードで阪神に移籍。79年から1番・ショートに定着して、外野手にコンバートされた85年は不動の1番打者として球団初の日本一に貢献。94年には代打の切り札として活躍。シーズン30打点の日本記録を樹立した。95年に現役を引退。引退後は解説者、近鉄でコーチを歴任後、09年から3年間、阪神の監督を務めた

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著者プロフィール

  • 高橋安幸

    高橋安幸 (たかはし・やすゆき)

    1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など

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