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「シノさん、しっかり伝えてよ!」監督・原辰徳の厳しさを盟友・篠塚和典が明かす (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――原さんは巨人だけでなく、篠塚さんもコーチを務めた2009年のWBCでも、イチローさんなど多くのスター選手を率いて日本代表を世界一に導きました。巨大戦力を束ねることに長けていた印象がありますが、いかがですか?

篠塚 それは感じましたね。先ほど話したコミュニケーション能力は、一流の選手たちをまとめるために大事な能力だと思います。特にWBCを戦う日本代表は、普段から一緒にやっている選手ばかりではないので、意識して多くの選手と会話するようにしていたと思います。

――篠塚さんは以前、中畑清さんとはグラウンド外でも食事などをする機会があったと話していましたが、原さんともそういう機会はありましたか?

篠塚 原と外で会う時はゴルフでしたね。今でも野球に関する話をすることはなく、もっぱらゴルフの話をしています。

――この連載の中で江川卓さんとのエピソードをお聞きした際は、江川さんについて「自分のバッティングを変えてくれた存在」と表現していましたが、篠塚さんにとって原さんはどんな存在ですか?

篠塚 先ほども(前編で)話しましたが、原が1年目(1981年)にセカンドのレギュラーに抜擢されたことで自分が試合に出られなくなった。結果的には、そのシーズンの5月頭にサードの中畑さんが故障したことで原がサードへ、僕がセカンドに入ることになり、その後も定着するんですけどね。

 もし開幕から自分がセカンドを任されていたら、あそこまでの成績を残せていなかったかもしれない(篠塚さんは1981年、自身のシーズン最高打率となるリーグ2位の打率.357をマーク)。自分が守るはずだったセカンドにルーキーの原が入って、最初は気持ちがモヤモヤしていましたが、すぐに切り替えて「チャンスが来た時に必ずものにしよう」と準備していました。その約1カ月は、自分にとってすごく意味のある期間だったと思います。

 原は、そういう成長につながる時間を作ってくれた。WBCでも巨人でも苦楽を共にして優勝も経験しましたし、自分を後押ししてくれた存在かもしれません。

(連載4:篠塚和典が語る、クロマティが「4割バッター」に迫った1989年 「大好き」と語っていた投手とは?>>)

著者プロフィール

  • 浜田哲男

    浜田哲男 (はまだ・てつお)

    千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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