甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。高橋直樹が語った因縁のライバル (6ページ目)
この時期の高橋さんはコントロールに絶対の自信を持つようになっていて、「右バッターの膝元にシュートを投げまくったのが効いた」という。それにしても、母親が母親になる以前に立てた誓いが本当に叶えられたのは驚異としか言いようがない。そして、この早慶戦での快投がプロの目に留まり、高橋さんは67年のドラフトで東映から3位指名を受ける。
「でも、僕は断りました。それで社会人の日本鋼管に入社したんだけど、三輪田も近鉄の1位指名を拒否して大昭和製紙に入ったんです。そうしたら、翌年春のスポニチ大会。皮肉なことに1回戦が日本鋼管対大昭和製紙。いきなり三輪田と投げ合って、僕が完封して4対0で勝ったんです。それからですよ、あいつと僕の運命が変わったのは......」
口ひげはなくなっていた取材当時の高橋直樹さん
東映入団を一度は拒否した高橋さんだったが、都市対抗での活躍もあってスカウトが執拗に追いかけるようになると、翻意して68年10月に入団。翌69年のプロ1年目から13勝を挙げ、即戦力として機能した。
一方で三輪田は70年に阪急に入団したが、層の厚い一軍投手陣に割って入れず通算で4勝に終わり、73年に現役を引退。スカウトに転身し、一時コーチになるも81年からスカウトに復帰。球団がオリックスに身売りされたあと、イチローを発掘したことで注目された。
「それで編成部長になって、ドラフト1位の選手を獲れなくて、失敗して、責任を感じたのか、沖縄で投身自殺しましたよね。ショックでした。僕にとっては甲子園のときから因縁の相手で、早稲田では最後まで三輪田のほうが上で、社会人でもプロでも意識してました。僕が阪急戦でよく勝てたのも、三輪田がいる球団に負けたくない、という気持ちだけで......。
話が飛びましたけど、永遠のライバルだから、あいつの話をしないと、僕の野球人生の話じゃなくなるんですよ」
過去20年間、野球人の取材を続けてきて、このような言葉を聞くのは初めてだ。そこまで自身のライバルに言及した方はいなかった。ゆえに、98年11月に他界した三輪田の話も聞きたいところだが、ここではあくまで高橋さん自身の、東映での活躍について聞いておきたい。
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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