甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。高橋直樹が語った因縁のライバル (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 一方、現場を離れてフロント入りした根本の肩書は球団管理部長、実質的にはGMとなったのだが、後年、高橋さんを獲得した理由をこう明かしている。

〈若い投手陣の成長が止まっていたんです。高橋君には、そんな若手にはなかったひたむきで粘り強いプロ魂があった。それを西武の若手に吸収してほしかったんです〉

〈プロ魂〉はいかにして培われたのか──。そう思って、会いに行きたくなった。

 約束の午後1時より10分早く着いたが、高橋さんはすでに待ち合わせ場所に来ていた。神奈川・横浜市にある東急東横線の駅の改札を抜けた所。現役時代の特徴だった口髭はないが眼鏡はかけていてすぐわかった。半袖のワイシャツにネクタイを締め、チェック柄のジャケットとポーチを小脇に抱える姿は紳士そのもので、長身かつ細身の体格は73歳(当時)という年齢を感じさせない。

 挨拶を交わしてすぐ、高橋さんは「いつも行ってる喫茶店がありますので」と言って先に歩を進めたが、一瞬立ち止まって振り返り、人懐っこい笑みを浮かべながら口を開いた。

「僕は日本ハムでよかったんだけど、広島に行ってダメになりましたから。それでも、西武でまた勝てるようになったんですね」

 事前の連絡で〈野球人生についてうかがいたい〉と取材主旨を伝えていたからか、いきなりその球歴が端的に語られた。高橋さんはプロ18年間で東映〜日拓ホーム〜日本ハム、広島、西武、巨人と4球団を渡り歩いているのだが、移籍を機に成績には変動があった。その背景と〈プロ魂〉はどう絡んでいたのだろう。

 駅から程近い喫茶店に案内され、満席なら60人以上は入れる広い店内の真ん中の席で向かい合った。早速に野球人生の原点を尋ねると、大分出身の高橋さんは父親が教師で、中学時代には、大分全県で実施された模試で26番になるほど頭脳明晰だったという。

 しかも父親は県立佐伯中(現・佐伯鶴城高)野球部でプレーしていた上に、母親は日本女子大に在学中、早慶戦を観戦して感激。「私の子どもが男の子だったら絶対、野球選手にして、早稲田に入れて早慶戦に出られるようにする」と誓ったそうだが、実際に高橋さんは早稲田大でプレーしているのだから驚かずにいられない。

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