甲子園、早稲田、プロ、そして突然の死。高橋直樹が語った因縁のライバル (5ページ目)
そうして63年、高橋さんは津久見高のエースとして夏の甲子園大会に出場。1回戦で中京商高(愛知)と対戦し、エースの三輪田勝利(みわた かつとし 元・阪急)と投げ合って3対4で惜敗したのだが、この三輪田との因縁めいた関係が大学、社会人、プロまで続くことになる。
「問題は甲子園のあとです。僕は津久見高校に入るときから早稲田に行きたかったけど、それ以上に母親の気持ちが早稲田に向かって、当時、朝日新聞の論説委員だった飛田穂洲(とびた すいしゅう)先生に手紙を出したんです。〈津久見高校の高橋投手は負けはしたけど優秀なピッチャーだ〉と、先生のコメントが新聞に載ったのを読んで、感謝の気持ちを書いたんですね。
飛田先生は早稲田の野球部初代監督ですから、それこそ、早慶戦を観たときの話も含めて......。そしたら、お返事の手紙が届いて、〈息子さんの力はすごい。だから私は大学のほうに推薦するように言っておくから〉と」
これは今の時代はもとより、いつの時代でもまずないだろうし、高橋さんが「問題」と言った理由もわかる。飛田穂洲といえば「学生野球の父」と呼ばれ、半世紀前でも「神様」だった人だ。もっとも、頭脳明晰な高橋さんは早稲田大に一般入試で合格している。入学後、1年生でただひとり飛田に声をかけられたそうだが、「神様」による推薦にどれだけの効力があったのか、定かではない。
「ひとつ言えるのは、母親は必死の思いで手紙を書いた、ということです。運もあったと思いますが、すべては母親の執念でしょう」
早稲田大には甲子園で投げ合った三輪田も入ってきて主戦投手となり、高橋さんは控えに回った。三輪田がリーグ通算45試合で23勝9敗だったのに対し、高橋さんは12試合で2勝2敗だったが、4年時の秋には早慶戦2回戦に先発。神宮球場に呼び寄せた母親の前で、1対0というスコアで完封勝利を挙げる。
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