門田博光が語っていた死生観。晩年15年間100回以上顔を合わせ、最後の通話者でもあったライターが明かす、レジェンドとの会話 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 一介のライターと、球界のレジェンドとの緩やかな関わりが始まったのは2008年。レッドソックスの松坂大輔が、日本で行なわれたMLB開幕戦の開幕投手を務めた春のことだった。

 出版社からの依頼を受け、プロ野球通算284勝の山田久志氏の読み物を執筆することになった。そこで現役時代に山田の好敵手だった門田の話を聞きたいと編集部にリクエストし、取材が決まった。

 門田が評論家の仕事を離れ、相生に居を移した頃だった。当初、門田となかなか連絡がつかず苦戦したが、ようやく本人とつながり、相生駅前の喫茶店で落ち合うことになった。

 取材の途中、何度か流れに沿わない質問や、こちらの物足りない反応に門田の表情が険しくなり、場の空気が硬くなることはあった。しかし、有り体の言葉でなく、自身の言葉で語る話は圧倒的に面白く、気がつけば3時間を超えていた。

 門田はしゃべりたがっていた。関西で人気だった解説者時代の語りを聞いても、本来はしゃべり好き。取材を終え「門田の話をもっと聞きたい」と思うと同時に、「聞かなければならない」という使命感に駆られた。

 以来、仕事をつくっては相生へ通い、気がつけば15年の歳月が経っていた。

【繊細すぎる神経の持ち主】

 2013年の夏には、王貞治氏、野村克也氏と揃って登場したヤフオクドーム(現・PayPayドーム)の試合イベントにもマネージャーのような立ち位置で同行した。

 2015年の春は、当初渋っていた野村氏との対談が実現。ほかにも炎天下での高校野球観戦、臨時コーチとして指導していた日本新薬の都市対抗予選の結果に一喜一憂したことも懐かしい。かつて大阪球場があった思い出の地・ミナミのイベントハウスで私が聞き手となってのトークショーを開催したこともあった。コロナ禍のなか、緑豊かな自然公園でトンカツ弁当を食べながら話を聞いたことも一度や二度ではなかった。さらには手術に付き添ったことも......。

 現役時代に比べれば、性格が丸くなったのは間違いないだろう。それでも門田は取材対象者として、気の抜けない人だった。

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