広澤克実が比較した名将3人。野村克也、長嶋茂雄、星野仙一のなかでコメント力が「群を抜いていた」人物は? (4ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi
  • photo by Sankei Visual

【野村の遺産か、星野の采配か】

 野村は1999年にヤクルトから阪神の監督になったが、3年連続最下位という結果に終わった。広澤は2000年から阪神に在籍し、4年間、野村監督(00、01年)、星野監督(02、03年)に仕えた。

 広澤がこんなエピソードを教えてくれた。

 2000年終了時点で、野村率いる阪神は2年連続最下位。チーム内外から若返りを求める声は強くなり、成績不振の38歳、広澤は矢面に立たされた。その時、野村とこんなやりとりがあった。

「来年どうする? どうしたい?」
「もし野村監督が辞めろと言うなら、すぐ引退します。僕の進退は監督が決めてください」
「もう1年やってみるか。辞める時は一緒に辞めよう」

 迎えた2001年、広澤は規定打席には到達しなかったが、打率.284、12本塁打と復調。試合のお立ち台で『六甲おろし』を歌い、ファンから「代打の仏様」と呼ばれた。

 しかしその年のオフ、"サッチー騒動"の余波で急転直下、野村が監督を辞任することになった。広澤は「野村監督と一緒に辞めなきゃ。でも、来年の契約は済ませたし、どうしたらいいんだろう......」と悩んでいると、野村から「がんばれ広澤。おまえは続けろ」と声をかけられたという。

 そして野村のあとを継いだのが星野で、2003年に18年ぶりのリーグ優勝を飾った。また楽天でも、野村のあとマーティン・ブラウンが監督を1年務めたのちに星野監督が就任して、2年目に球団初の日本一へと導いている。

 阪神時代にしても、楽天の例にしても、優勝したのは"野村遺産"か"星野采配"か、よく議論される話である。広澤の見解はこうだ。

「井川は四球を出しても、野村監督が我慢して使い続けた。その経験が(20勝で最多勝に輝いた)2003年に生きた。それに矢野(燿大)を一人前の捕手に成長させたのも野村監督です。一方、星野監督はくすぶっていた今岡を蘇生させ、金本(知憲)や伊良部(秀樹)など、大型補強を敢行した。だから優勝は、ふたりのコラボレーションの結果だと思います」

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