西武監督の広岡達朗から「練習に参加しなくていい」。代わりに石毛宏典は木刀と道着を持って新宿に通った
野球人生を変えた名将の言動(2)
石毛宏典が語る広岡達朗と森祇晶 前編
アスリートの競技人生は、指導者との出会いによって大きく変わる。11回のリーグ優勝と8回の日本一に貢献するなど、圧倒的な強さを誇った西武黄金時代のチームリーダーとして長らく活躍した石毛宏典もそのひとりだ。
新人王(1981年)やMVP(1986年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ賞10回など輝かしい実績を残した石毛に、プロ入り2年目、野球人生におけるターニングポイントとなったという広岡達朗との出会いやエピソード、上司としての広岡氏の魅力を聞いた。
本塁打を放ち、清原和博やデストラーデに迎えられる石毛 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る***
――広岡さんと初めて会った時のことや第一印象について教えてください。
石毛宏典(以下:石毛) プロ入り2年目だった1982年の1月中旬頃だったと思いますが、昔は合同自主トレがあって、そこに初めて(同年から西武の監督に就任した)広岡さんが来られました。事前に僕のプレースタイルを見ていたんでしょうね。開口一番「お前が石毛か! ようそんなんで新人王を獲れたな、下手くそが」といきなり言われたんで、「えっ?それはないんじゃないの」という気持ちになって、へそを曲げた記憶があります。
――広岡さんは規律を重視する"管理野球"を実践されていましたが、具体的にどこまで管理されていましたか?
石毛 自主トレから何からすべてですね。選手とその奥さんを集めて、「我々の年俸はどこから出ている? それはファンの方々の入場料からだ。そのファンが年に1回、プロ野球を見に来る時に、(当時西武の主力でスター選手の)田淵幸一が試合に出ていなかったら寂しがるだろう。レギュラーを張っている人間は常にゲームに出続ける使命感があるんだ。だから、コンディションを整えなければいけない」と話をされていました。
毎年キャンプのミーティングでは、試合における「必勝法」や「失敗法」などが書かれたテキストに基づいて、勝つために大切なことをたたき込まれました。「君たちは上手くなれる要素があるし、もっと上手くなれるんだ」とも言われましたね。門限が決められたのも、広岡さんが監督になってからでした。当時、ここまで管理を徹底しているチームは他になかったと思いますが、管理されたことでチームが強くなっていったという印象です。
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