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原辰徳監督と阿部慎之助から信頼を得たきっかけ。橋上秀樹が明かす巨人選手たちの舞台裏 (2ページ目)

  • 岡田浩人●取材・文・写真 text & photo by Okada Hiroto

 ところが、橋上氏が予期しなかった出来事が起こる。戦略コーチ就任会見からわずか10日後、あの"清武の乱"が起きる。清武氏は解職となり、橋上氏は自らを抜てきしてくれた最大の後ろ盾を失うことになったのだ。

「生え抜きの指導者が多い巨人のなかで、スタートの時点で"マイナス"から入ったことは事実でした。2011年の秋季キャンプ、そして2012年の春季キャンプを経て、そうした"距離感"は痛いほど感じていた。当初は原監督とも距離があって、こちらに何かを聞いてきたり、積極的に会話をしたりするような間柄ではなかったですね」

 2012年シーズンが開幕し、橋上氏は戦略コーチとして一軍ベンチに入った。巨人は開幕直後から打線が振るわず、4月には2度の5連敗を喫するなど下位に低迷。そこで橋上氏は原監督に呼ばれたという。

「神宮球場のヤクルト戦で敗れた後でした。ビジターのロッカールームで岡崎(郁)ヘッドコーチ、江藤(智)打撃コーチ、村田(真一)打撃コーチら、一軍のコーチ陣が呼ばれました。原監督が『この状況を打破するためにはどうしたらいいか』と言われ、それぞれが意見を述べたのですが、最後に私に順番が来た時に『小笠原(道大)の起用法を考え直したほうがいいのではないでしょうか』と言いました。

 開幕からずっと小笠原がスタメンで出場していたのですが、前年のケガから続く不調で結果を残せていなかった。その小笠原について進言した瞬間、原監督が間髪を置かずに『そうなんだよ。実は俺もそこに頭を痛めているんだ』と。原監督はFAを経て入団してきた小笠原に特別な思いがあったようで、これまでそのバットで何度も助けられてきた。だからこそ、なかなか外す決断ができなかった。今から思えば誰かに背中を押してもらいたかったのではないでしょうか」

 チームは小笠原をスタメンから外す決断をした。その後、5月に入ると投打が噛み合い上昇気流に乗る。交流戦ではセ・リーグのチームとして初優勝。その後、リーグ優勝と日本シリーズ制覇を成し遂げた。

「あの小笠原の一件で、原監督との距離が縮まったかなと思います。その後はベンチで質問されることも多くなりました」

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