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「ロッテの野球をやってんじゃねえ」。
前田幸長の選手寿命を延ばした言葉 (2ページ目)

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Sankei Visual

 FA制度が1993年に導入されると、権利取得者の動向がシーズンオフの関心事になった。選手たちにとって移籍の自由が増えた一方、付加価値を高めたのが"生え抜き"という生き方だ。わかりやすい例で言えば、則本昂大(楽天)や山田哲人(ヤクルト)のようにドラフト指名された球団と長期契約を結び、チームの"顔"としてファンに愛されていく。

 一方、前田には"旅"を繰り返さなければならない理由があった。エースや主軸打者のように、傑出した力を持つわけではなかったからだ。

「このままなら、自分は終わってしまうという危機感がありました」

 ボビー・バレンタイン監督が就任した1995年、ロッテが10年ぶりの2位と躍進したなか、前田は17試合で3勝6敗、防御率5.10に終わり、オフにトレードを志願した。

 じつは前年にも移籍を願い出ている。高卒2年目から4シーズン続けて2ケタ勝利に迫ったが、1994年は4勝10敗、防御率6.20と低迷し、「環境を変えることで"何か"が変わるかもしれない」と考えた。

 球団には「まだ戦力だから出せない」と断られたが、2年続けて低迷した1995年オフに再度訴えると、「考える」という答えに変わった。

 トレードの実現には、少なくとも2球団が思惑を合致させる必要がある。前田にとって幸運だったのは、翌年から星野仙一が中日の監督に復帰すると決まっていたことだ。

 星野は5年ぶりの指揮に備え、就任早々"手腕"を発揮する。仁村徹、酒井忠晴、山本保司を放出する代わりに、ロッテから平沼定晴、樋口一紀、そして前田を獲得した。

 新天地でのリスタートは、思うように切れなかった。開幕2戦目に先発したが、足を故障して約2カ月半の戦線離脱を強いられる。復帰初戦で白星を挙げたものの、翌週、ナゴヤ球場でのヤクルト戦では試合中盤に同点2ランを浴びた。

「いつまでもロッテの野球をやってんじゃねえぞ、おめえ!」

 この一発が、星野の逆鱗に触れた。

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