「ロッテの野球をやってんじゃねえ」。
前田幸長の選手寿命を延ばした言葉

  • 中島大輔●文 text by Nakajima Daisuke
  • photo by Sankei Visual

【短期連載】FAは誰を幸せにするのか?(5)

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 甲子園で注目を浴びて1988年ドラフト1位でロッテ入団、志願のトレードやフリーエージェント(FA)宣言による巨人移籍を経て、37歳になってメジャーリーグという夢を追いかけた。

 左腕投手の前田幸長が通算20年間もプレーできた背景には、計算されたキャリア設計がある。

「みんなキレイごとばかり言うかもしれないですけど、まずはお金の問題が一番というのがありました」

 高卒11年目にFA権を取得し、同13年目に行使した理由をキッパリ振り返る。お金と向き合うことは、前田にとって現役生活をいかに組み立て、人生を豊かにするのかと同義だった。

中日に移籍後、首脳陣に直訴して先発から中継ぎに転向した前田幸長中日に移籍後、首脳陣に直訴して先発から中継ぎに転向した前田幸長 19年間に及んだNPB時代を振り返り、このサウスポーを最も特徴づける成績がある。歴代43位タイの通算595試合に登板----。エースでも、守護神でもない。179センチ、70キロの痩身で、速球は140キロそこそこしか出ない。

 それでも先発から中継ぎまでこなし、宝刀ナックルを武器にする"使い勝手のいい"投手だった。

「自分がこの世界で長く生きていくためには、いろんなものを変え続けなければいけない。そう思いながら、ずっと探しながらやってきました」

 1980年代後半から1990年代半ばまで"暗黒時代"と言われるほど弱く、人気のなかったロッテで5年連続2ケタ黒星という不名誉な記録を刻んだ。その間に8勝と9勝が各2回あったのは、それだけ打線の援護に恵まれなかった裏返しかもしれない。

 1996年に志願してトレード移籍した中日では、首脳陣に直訴して3年目から中継ぎへ。"タフネス左腕"として生きる道を見つけた。

 2001年オフにFA宣言し、巨人入団。キャリアのピークを迎え、自身初の日本一を経験した。

 野球への探究心は国内だけで飽き足らず、37歳で渡米する。「1球でもいいから投げたかった」というメジャー昇格こそかなわなかったが、レンジャーズ傘下の3Aでベースボールの奥深さを体感した。

「1球団にずっと留まりたがる人もいるでしょうけど、僕はそうではなかったですね」

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